説教#135:「まことの礼拝者であるために」
「まことの礼拝者であるために」 聖書 マタイによる福音書6:24、列王記上18:30-40 2016年 9月 25日 礼拝、小岩教会 【初期の教会の人々は、誰のしもべとして生きていたか?】 「だれも、二人の主人に仕えることはできない」(マタイ6:24)。 初期のキリスト教会の人々にとって、 このイエス様の言葉はとても衝撃的な言葉だったと思います。 「だれも、二人の主人に仕えることはできない」というイエス様の言葉は、 特定の誰かを自分の主人にしているということが前提となっています。 それがなぜ衝撃的なことだったかというと、 初期のキリスト教会の時代に奴隷制度は一般的なものであり、 教会の中にも当然、奴隷の身分である人々もいたからです。 そのため、イエス様の言葉を聞いた人々は、改めて考えたと思うのです。 「私の主人とは一体誰なのだろうか?」 つまり、「私は一体誰のものなのだろうか?」と。 古代世界において、人々は基本的にその家の家長である 父親の所有物であると考えられていました。 人権についての考え方が確立されている現代において、 それは到底受け入れることのできないものですが、 当時の人々にとって「私は父親のもの」であることが常識でした。 また、当時、どの国にも王がいました。 王がいるということは、その国の人々は、王のしもべ、 つまり、王の所有物ということです。 ただ、イエス様の生きた時代や、初期の教会の時代に、 ユダヤの人々が置かれていた状況はもう少し複雑なものでした。 当時、ユダヤの国は、ローマ帝国の支配下にありました。 ということは、「ローマ皇帝カイザルこそが、自分の主人である」 と告白することがすべての人々に求められていました。 そのような状況下で、イエス様を信じる人々は、 「イエスこそ主である」と信仰告白しました。 ですから、この信仰告白は、とても政治的な言葉だといえます。 「私は王のしもべではない。 まして、ローマ皇帝のしもべでもない」と宣言しているのですから。 神と自分の主人である王やローマ皇帝の、 そのどちらかを選んで生きることは、とても難しいことでした。 もしも、自分の主人に「私の主