しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年9月25日日曜日

説教#135:「まことの礼拝者であるために」

「まことの礼拝者であるために」 
聖書 マタイによる福音書6:24、列王記上18:30-40 
2016年 9月 25日 礼拝、小岩教会 

【初期の教会の人々は、誰のしもべとして生きていたか?】
「だれも、二人の主人に仕えることはできない」(マタイ6:24)。
初期のキリスト教会の人々にとって、 
このイエス様の言葉はとても衝撃的な言葉だったと思います。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない」というイエス様の言葉は、 
特定の誰かを自分の主人にしているということが前提となっています。
それがなぜ衝撃的なことだったかというと、 
初期のキリスト教会の時代に奴隷制度は一般的なものであり、 
教会の中にも当然、奴隷の身分である人々もいたからです。
そのため、イエス様の言葉を聞いた人々は、改めて考えたと思うのです。 
「私の主人とは一体誰なのだろうか?」 
つまり、「私は一体誰のものなのだろうか?」と。 
古代世界において、人々は基本的にその家の家長である
父親の所有物であると考えられていました。
人権についての考え方が確立されている現代において、 
それは到底受け入れることのできないものですが、
当時の人々にとって「私は父親のもの」であることが常識でした。
また、当時、どの国にも王がいました。
王がいるということは、その国の人々は、王のしもべ、
つまり、王の所有物ということです。
ただ、イエス様の生きた時代や、初期の教会の時代に、
ユダヤの人々が置かれていた状況はもう少し複雑なものでした。
当時、ユダヤの国は、ローマ帝国の支配下にありました。 
ということは、「ローマ皇帝カイザルこそが、自分の主人である」
と告白することがすべての人々に求められていました。
そのような状況下で、イエス様を信じる人々は、
「イエスこそ主である」と信仰告白しました。
ですから、この信仰告白は、とても政治的な言葉だといえます。
「私は王のしもべではない。 
まして、ローマ皇帝のしもべでもない」と宣言しているのですから。
神と自分の主人である王やローマ皇帝の、
そのどちらかを選んで生きることは、とても難しいことでした。
もしも、自分の主人に「私の主人はあなたではありません。
わたしの主人はイエス様です」などと言えば、
痛い目にあうのは目に見えています。
ですから、黙って、キリストに従いつつ、自分の主人にも従う。
そうやって、ふたりの主人に従うことが、賢い生き方でした。
そんな生活をしているとき、イエス様の言葉が耳に届いたのです。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない」(マタイ6:24)。
それは、衝撃的な言葉でした。
そのため、「私の主人とは一体誰なのだろうか」
「私は一体誰のものなのか」と、
人々は改めて自分自身に問いかけることになったのでしょう。

2016年9月18日日曜日

説教#134:「憐れみの火を灯せ」

「憐れみの火を灯せ」 
聖書 マタイによる福音書6:22-23、箴言22:9 
2016年 9月 18日 礼拝、小岩教会 

【「体のともし火は目である」】 
「体のともし火は目である」(マタイ6:22)。 
何だか、わかるようで、よくわからない言葉です。 
これが「体の窓は目である」だったなら、理解することが出来るかと思います。 
目を通して、私たちは外の光の明るさを知り、 
体の窓である目から、外の光を取り込んで、体全体は明るくされるのだ、 
という諺として受け取ることが出来るでしょう。 
しかし、イエス様はそのようには表現されませんでした。 
イエス様は「体のともし火は目である」(マタイ6:22)と語られました。
一体どのような意味なのでしょうか。 
イエス様のこの言葉は、まるで、私たちの目そのものがともし火として、 
自分自身を光り照らして、からだ全体を明るくし、 
私たちの周囲に光を放っているものであるかのように、私たちの耳に響きます。 
イエス様が語っているとおり、「目」がともし火であるならば、 
私たちの目は、私たちの体全体を明るくもし、
暗くもするものだということです。
イエス様が言うように、「体のともし火は目である」ならば、 
目こそが、私たちの体全体を明るくも、また暗くもする、 
重大な鍵を握っているものだといえるでしょう。 

2016年9月11日日曜日

説教#133:「心の置き場所」

「心の置き場所」 
聖書 マタイによる福音書 6:19-21、申命記 8:1-10 
2016年 9月 11日 礼拝、小岩教会 

【所有することについて】 
「何かを所有することは、良いことだ」という価値観は、 
いつの時代も変わらずに、
私たち人間の考えを支配している考え方といえるでしょう。 
確かに、自分が必要だと思うもの、心から欲しいと思うものを手に入れると、 
私たちの心は満たされ、喜びが沸き起こります。 
しかし、私たちは喜びを覚えるその一方で、 
自分の心の中に、もう一つの感情があることに気付かされます。 
それは、「まだ他のものも欲しい、これだけでは足りない、
もっともっと必要だ」と願い求める、貪欲な心です。 
イエス様は、私たちが心で抱くそのような思いを感じ取られたのでしょう。 
そのため、イエス様は人々にこのように語り掛けました。 
あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。(マタイ6:19) 
イエス様は、私たちの貪欲さに直接目を向けるのではなく、 
自分のために地上に富を積み続けることが、
私たちに悩みを起こさせることを指摘されました。
富とは、金貨と銀貨(ヤコブ5:3参照)
のことだけを指す言葉では、もちろんありません。 
当時の人々にとっての富とは、
贅沢な衣服(ヤコブ5:2)や、 食物の蓄え(ルカ12:16-21)、
また、高価な香料(マタイ2:11)などを意味していました。 
ここでは、虫食いについて語っているので、 
イエス様は高価な衣服を意識して語っているのでしょう。 
高価な衣服こそ、虫食いの被害に遭うのを何としても避けたいものです。 
ですから、イエス様の時代の人々は、 
高価な衣服が虫食いの被害に遭わないようにと、 
家の外に自分の服を干して、虫食いを防止しました。 
しかし、外に高価な衣服を干したら、当然人の目につきます。 
そのため、その高価な衣服は、多くの人々の目に留まり、
「あの家の人は、高価な衣服を持っているのだから、
たくさんの財産を持っているのだろう」と、
人々の間で噂になってしまいます。
その結果、その家にある財産は、
盗人たちに狙われてしまうことになるのです。
そうなってしまうと、大変です。
衣服の虫食いを心配するだけでなく、
家の中にある財産が盗まれて、奪われてしまうかもしれない
という心配までしなければならなくなってしまうのです。
何ということでしょうか!
このように、私たちが自分のために地上に富を積み続けると
どのような結果を及ぼすのかを、 
イエス様はこの短い言葉で、実に的確に表現されたのです。 

2016年9月4日日曜日

説教#132:「衣ではなく、あなたの心を引き裂け」

「衣ではなく、あなたの心を引き裂け」 
聖書 マタイによる福音書 6:16-18、サムエル記下 12:13-23 
2016年 9月 4日 礼拝、小岩教会 

【現代人にとっての「断食」】
「人間にとって最も良いのは、
飲み食いし自分の労苦によって魂を満足させること」(コヘレト2:24)と、
旧約聖書の「コヘレトの言葉」に記されているように、
聖書の時代の人々にとって、食べることは何よりも喜びでした。
「断食」というものは、人々にとって喜びであり、
そして、自分の生命を保つために欠かすことの出来ない、
食事を一時的にやめることでした。
断食をするたびに、人々は気付かされたことでしょう。
私たちが日々飲み食いしているものは、実のところ、
「神の手からいただくもの」(コヘレト2:24)であるのだ、と。
つまり、自分自身の力によって、自分の生命を支えているのではなく、
日々食べるものを備えてくださる神によって、
私たちの生命が保たれているのだ、と断食をする毎に人々は気付かされ、
神に感謝を捧げたことでしょう。
このような信仰的な気づきを私たちに与える断食というものは、
当時の人々にとって、信仰深い行いのひとつでした。
この断食について、イエス様は、このように語りました。
断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。(マタイ6:16)
イエス様は断食そのものを禁止することはしませんでしたし、
実際、イエス様自身もかつて、荒れ野において
40日間の断食を行っていましたが(マタイ4:2)、
その一方で、イエス様は人々の行う断食の姿勢を批判したのです。
「あなたがたは、人に見てもらおうとして、断食を行っている」と。
しかし、そもそも現代に生きる信仰者のひとりである、私たちにとって、
断食をすることそのものが、無意味なことのように思えるかもしれません。
そのようなことをしなくても、
神は私たちの祈りを確かに聞いてくださる方なのですから。
でも、そのように思いつつも、自分自身の生活を思い返してみると、
実は、食べ物を食べないこと自体は、経験していることに気付かされます。
ある時は、忙しすぎて、食べるのを忘れてしまいます。
またある時は、お昼ごはんを食べてしまうと、
昼過ぎに眠くなってしまうから、という理由で、意図的に食事を抜きます。
前日の夜に食べ過ぎたため、翌日になっても何も食べられないこともあります。
そして、病気で食欲がなかったり、体重を落としたかったりなど、
健康上の理由から、食事を控えることさえあります。
そのような理由で、私たちはしばしば食事を抜きます。
その意味で、現代人が日常的にする「断食」といえば、
信仰上の理由ではなく、自分自身のためだといえるでしょう。
自分がしたいことに集中するために、
私たちは食事を摂らないことがあるのです。
このように、食事を摂らないこと自体は、
私たちにとっても意外と身近なことだといえます。