しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2016年12月25日日曜日

説教#147:「居場所を与えるために来られた方」

「居場所を与えるために来られた方」 
聖書 ルカによる福音書2:1-20、申命記10:17-19
2016年 12月 25日 礼拝、小岩教会 

【泊まる場所が見つからないマリアとヨセフ】
皆さん、クリスマスおめでとうございます。
きょう私たちは、この礼拝を通して、 
私たちの救い主である、イエス・キリストがお生まれになったことを 
一緒にお祝いする時間を過ごしています。 
きょう一日、世界中のあらゆる教会で、 
イエス様の誕生が喜ばれ、お祝いされていることでしょう。 
そして、愛する家族や友人たち、また教会の人々と
一緒に楽しいひとときを過ごし、 美味しい食事を食べて、
プレゼントをお互いに交換し合う。 
そのように、日本だけでなく、世界中が喜びに包まれ、 
楽しく、明るい雰囲気になるのがクリスマスの日です。 
そうであるならば、私たちのこの喜びのきっかけとなった 
イエス・キリストの誕生は、さぞかし喜びに包まれ、 
華やかに、多くの人に祝われたのだろうと想像してしまいます。 
でも、どうやらそうではなかったと、 
先ほど朗読していただいた聖書の言葉は私たちに告げます。 
ルカはイエス様の誕生について、このように書いています。 

ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。(ルカ2:6-7)

イエス様の両親であるヨセフとマリアは、 
当時の皇帝の勅令に従って、住民登録をするために、 
ユダヤ地方にあるベツレヘムの町を訪れていました。 
当時の人々は、旅に出た際、 
行った先々の地に住む親戚や知人を探し出して、
その人の家に泊めてもらったそうです。
7節で「宿屋」と訳されている言葉は、
商業的な宿泊場所ではなく、個人の家の客間を意味しています。
ですから、ヨセフとマリアも、当時の人々の習慣に従い、
一晩泊めてもらえないかと親戚や知り合いの家を尋ね歩いたことがわかります。
しかし、ベツレヘムの町は、自分たちと同じように、 
住民登録をするためにやって来た人々で溢れていました。
恐らく、そのためでしょうが、ふたりがどの家を尋ねても、
家の客間には既に先客がいるため、
彼らを宿泊場所として受け入れてくれる家はありませんでした。
もちろん、宿屋に泊まるという選択肢もありましたが、 
当時の宿屋は、ならず者や強盗も泊まる場所でした。 
そのため、夫婦や子どもを連れて旅する人は、 
宿屋に泊まるのを避けていたようです。 
「個人の家の客間」を意味する言葉を7節で使っていることから、 
ヨセフとマリアも宿屋に泊まることは避けていたことがわかります。
そのようなわけで、なかなか泊まるための場所を見つけることが出来ず、
彼らはベツレヘムの町を宿を探し求めて歩き回ったことが伺えます。
身重の女性には出来る限り、 
身体に負担をかけないようにしなければなりませんから、
ヨセフはマリアの身体のことを気遣って、 
焦りを覚えながら、泊まるための場所を探したことでしょう。 
親戚や知り合いを尋ねても、既に先客がいるために断られる。 
ダメ元で、見ず知らずの家を尋ねたでしょうが、
良い結果は得られませんでした。
そのように、なかなか泊まる場所が見つからない現状に、 
ヨセフもマリアも泣きたくなったかもしれません。 
その上、またひとつ問題が増えます。 
何と、マリアが産気づいたというのです。 
早く泊まる場所を見つけなければとますます焦るばかりです。
ルカは、とても短い報告で留めていますが、 
想像力を働かせて、このときの状況について思い巡らしてみると、 
ヨセフとマリアの置かれた状況が、 
とても深刻な状況であったことがわかります。 

2016年12月18日日曜日

説教#146:「マリアと共に歌え」

「マリアと共に歌え」 
聖書 ルカによる福音書 1:46-56、サムエル記 上 2:1-10
2016年 12月 18日 礼拝、小岩教会

【私たちは歌う】 
皆さんはどのようなときに歌を歌うでしょうか。 
もちろん個人差はあるでしょうが、 
私たちは様々なときに歌を口ずさみます。 
単調な作業を続けているときは、 
その場を華やかに、また楽しくするために、 
口笛を吹いたり、鼻歌を歌ったりします。
子育て中の方は、子どもと一緒に遊んだり、 
子どもをあやしたりするために歌います。
「いろは歌」や「アルファベットの歌」など、 
歌を用いて、必要な知識や教養を身につけることは、 
恐らく多くの人たちが経験してきたことでしょう。 
また、単純に歌うことが好きだから歌う人もいれば、
ストレスを発散する目的で、大声で歌う人もあるでしょう。 
このように、私たちは生活の様々な場面で歌を歌ってきましたし、 
きっとこれからも歌い続けます。 
楽しいときも、悲しいときにも、 
嬉しいにも、苦しいときも、
その時、その瞬間の自分の気持ちに寄り添ってくれる歌を 
私たちは選び、歌を口ずさみます。 

2016年12月11日日曜日

説教#145:「そして、世界は喜び躍る」

「そして、世界は喜び躍る」
聖書 ルカによる福音書 1:39−45、イザヤ書 61:10−11
2016年 12月 11日 礼拝、小岩教会

【マリア、エリサベトのもとへ挨拶へ行く】
「あなたは身ごもって男の子を産む」(ルカ1:31)と天使から告げられた、
イエス・キリストの母となるマリア。
彼女はその後、親戚のエリサベトに会うために、旅に出たそうです。
マリアが住んでいたナザレから、
エリサベトのいるユダまで、およそ150kmあります。
当時の移動手段は徒歩ですので、
移動のために3,4日は必要です。
決して近くはないこの道のりを旅することを、
どうやらマリアは「急いで」(ルカ1:39)決断したそうです。
マリアをこのような行動へと駆り立てたのは、神ご自身でした。
神は、ご自分が遣わした天使を通して、
マリアが男の子を産むことを伝えた後、このように語りました。
あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。(ルカ1:36−37) 
「不妊の女」と呼ばれていたエリサベトが、
お腹に子を宿してから、もう6ヶ月になる。
この事実は、「神に出来ないことは何一つない」ことを、
マリアに確信させるものでした。
それと同時に、子どもを身ごもるはずがないのに、身ごもるという、
あり得ない出来事が起こったエリサベトは、
自分と近い境遇にあるとマリアは感じたのでしょう。
だから、是非とも、早い内にエリサベトに会いたい。
そのような願いが、自分の内側から沸き起こり、
その思いに促されて、マリアはエリサベトのもとへ行く決意をしました。
この物語の語り手のルカも、エリサベトのもとへと急ぐマリアに引っ張られ、
どこか急ぎ足で話を進めているようにも感じます。
旅のための身支度や、マリアの旅の様子など全く描くことなく、
物語は一気にエリサベトの暮らす家へと移ります。

2016年12月4日日曜日

説教#144:「神に出来ること、出来ないこと」

「神に出来ること、出来ないこと」
聖書 ルカによる福音書 1:26-38、創世記 18:9-15
2016年 12月 4日 礼拝、小岩教会

【サラとマリア】
きょうは、ふたつの物語を一緒に朗読して頂きました。
このふたつの物語には、
同じような状況に立たされている女性の姿が描かれています。
ひとりの女性の名前は、サラ。
彼女は、神によって遣わされた人を通して、
神が自分の夫のアブラハムに告げた言葉を聞きました。
「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」(創世記18:10)
この話をこっそりと聞いていたサラは、ひそかに笑いました(創世記18:12)。
というのも、彼女はこの時すでに89歳でした。
常識的に考えれば、89歳の女性に子どもが生まれるはずありません。
では、もう一人の女性はどのような人物だったのでしょうか。
ルカによる福音書に登場した女性の名前は、マリア。
彼女のもとにある日、ガブリエルという名の天使がやって来て、
その天使は彼女にこのように告げました。
あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。(ルカ1:31-33)
この天使の言葉に、マリアは戸惑い、恐れを抱きました。
そして、反論します。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。」(ルカ1:34)
彼女がこのように戸惑い、反論する理由はとてもよく理解できます。
というのも、彼女は婚約期間中ではありましたが、
男性と性交渉をした経験などなかったのですから。
彼女が、子どもを身ごもるわけなどありません。
そんなのあり得ない話なのです。