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説教#198:「暗闇が深まる世界に宿る、確かな光」

「暗闇が深まる世界に宿る、確かな光」 聖書 創世記 1:1-5、ヨハネによる福音書 1:1-5 2017年 12月 31日 礼拝、小岩教会 1年の終わりの日、私たちはこの1年の出来事を その年の「はじめ」から振り返ります。 今年一年、楽しいことも、嬉しいこともありました。 苦しい思いも、悲しい思いも味わいました。 大切な人とのお別れもあれば、 とても嬉しい出会いも経験しました。 テレビをつければ、この1年の間、 2017年のはじめから、きょうに至るまで、 この国や世界でどのようなことが起こったのかを教えてくれます。 喜ばしいニュースも、胸を痛めるような出来事もありました。 励ましを受ける話題もあれば、 これからの未来に不安を抱くような話も耳にしました。 このように、私たちがその年の始まりに目を向けて、 そこから一年を振り返るのは、 新たな始まりを期待しているからなのかもしれません。 次の年こそは、喜ばしい1年にしたい。 この1年の反省を覚えながら、新しい年に期待をするのです。 きょう、この日、 私たちも「はじめ」に目を向けるように招かれています。 それはこの1年の始まりでも、 私たち一人ひとりの生涯の始まりの日でもありません。 ヨハネは、その福音書の始まりでこう言います。 「初めに言があった」と。

説教#197:「闇を打ち破る知らせを歌おう」

「闇を打ち破る知らせを歌おう」 聖書 ルカによる福音書 2:1-20、イザヤ書 9:1-6 2017年 12月 24日 礼拝、小岩教会  主イエスが産まれたあの日、最初のクリスマスの夜に、  町から少し離れた荒れ野で、 数人の羊飼いたちが野宿をしていました。  彼らは、狼に羊の群れが襲われないように、  羊たちを守るため、数時間ごとに交代をしながら、  夜通し、羊の番をしていました。  彼らの多くは、農民でもあったようです。  ただ、彼らは作物を育てるための土地を持てず、  仕事で得られるお金もわずかでした。  そのため、何とか生きていくためのお金を手にするため、  羊をたくさん持っている人たちの羊を世話していたのです。  つまり、ユダヤの社会において、この当時の羊飼いたちは、  社会の底辺にいた、貧しい人たちの一人だったのです。  羊飼いたちは、自分たちの貧しい境遇で苦しんでいただけでなく、  ユダヤの人々からは偏見の目で見られていました。  「ならず者」と呼ばれ、何をしでかすかわからない人たちと、  羊飼いたちは考えられていたようです。  ですから、彼らにとって、  同じ境遇に立たされている仲間たちと一緒に、  人々の住む町を少し離れて、  荒れ野で羊の世話をしている方が、心地よかったと思います。  でも、もちろん、そのような生活に 満足しているわけではありませんでした。 好き好んで、このような生き方をしているわけではありません。  出来ることなら、人々から偏見の目で見られることなく、  町の人々と一緒に過ごしたいと願っていました。  しかし、彼らは、荒れ野に留まるしかなかったのです。  この夜、彼らを覆っていた暗闇は、  まるで、彼らの置かれている境遇を象徴するかのような暗さでした。  そんな彼らに、あの日、最初のクリスマスの日に、  神から遣わされた一人の天使が、彼らのもとに近づいて来ました。 

説教#196:「沈黙を賛美へと変える神」

「沈黙を賛美へと変える神」 聖書 マラキ書 3:20、ルカによる福音書 1:57-80 2017年 12月 17日 礼拝、小岩教会 子どもの誕生。 それはいつの時代も喜ばしいことでした。 特に、長い間子どもが与えられずにいたエリサベトにとって、 高齢になってから子どもが与えられたことは、 どれほど嬉しかったことでしょうか。 また、エリサベトの子どもの誕生は、 彼女や夫のザカリアの親戚、 そして近所の人たちにとっても大きな喜びでした。 このように、周囲が喜びに包まれている中、 エリサベトの夫のザカリアは、一人、沈黙を守っていました。 いいえ、正確に言えば、彼は神から言葉を奪われていました。 その上、彼の周囲にいた人々が、 身振り手振りをしながら彼に接するその様子から、 どうやら、彼は耳も聞こえなくなっていたようです。 この沈黙は、何も、この時に始まったわけではありませんでした。 半年以上も前に、天使ガブリエルが、彼の前に現れて、 エリサベトが子どもを産むと告げたときから、 その言葉を信じきれなかったあのときから、 ザカリアは神によって、言葉を奪われていたのです。 この沈黙は、彼にとって、どのようなものだったのでしょうか。

説教#195:「小さな賛美に耳を傾けよ」

「小さな賛美に耳を傾けよ」 聖書 創世記 1:31、ルカによる福音書1:26-56 2017年 12月 10日 礼拝、小岩教会 ガリラヤのナザレという町に、   マリアという名の若い女性がいました。   あるとき、彼女は旅に出ることにしたそうです。   彼女が目指した場所とは、親戚のエリサベトが暮らす、   ユダ地方にある町でした。   このとき、彼女は急いでエリサベトの家を目指したようです。   ナザレからユダまで歩いて移動をすると、3~4日かかります。   そのような旅をすることを、   マリアが急に思い立った理由は何だったのでしょうか? それは彼女が旅に出る決断をする前に、 彼女のもとに天使ガブリエルが訪れたことに関係がありました。   天使が自分の前に現れることさえ、驚くべきことでしたが、   天使ガブリエルは、もっと信じられないことを彼女に語りました。   それは、マリアが男の子を産むこと。   産まれてくる子が、神の子と呼ばれること。   そして、その子が、永遠にイスラエルを治める者となることでした。   「どうして自分が選ばれたのだろうか?」   「どうしてそのようなことが、ありえるのだろうか?」   不思議に思うこと、疑問に思うことはたくさんありました。   しかし、マリアは、「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37)   と告げる、ガブリエルの言葉を信じました。   神がこれから行われること、そして自分の身にこれから起こることを、   信仰をもって、彼女は受け止めました。   「お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1:38)と。   このときマリアは、親戚のエリサベトが、   高齢であるにも関わらず、身ごもったことを   ガブリエルを通して知りました。   人間の目にはあり得ないこと、信じられないことが、   エリサベトの身に起こったを知りました。   だから、マリアはエリサベトに会いたいと思ったのでしょう。   マリアは、ガブリエルの言葉を完全に信じきれなかったから、   確信を得るために、エリサベトのもとへ行ったのではありません。   同じような境遇に立たされているエリサベトと会って、話

説教#194:「口が閉ざされたところに、救いが来た」

「口が閉ざされたところに、救いが来た」 聖書 ルカによる福音書 1:5-25、ゼカリヤ書 2:14-17 2017年 12月 3日 礼拝、小岩教会   その日は、祭司であるザカリアにとって、とても喜ばしい日でした。   年におよそ2回まわってくる、神殿の当番をするこの週、   彼はアビヤ組の祭司たちで仕事の分担をするためにくじを引いたところ、   神殿の聖所に入り、祭壇の前に立って、香をたく役目が当たりました。   香をたいたときに上がる煙は、ユダヤの人々の祈りを象徴していました。   香をたくことで象徴される人々の祈りを代表して、   ユダヤの人々のために祈る役割こそ、 この時、ザカリアに与えられた役目です。   どうやら、祭壇の前で香をたくというこの役目は、通常、 一生の間に1度か2度しか経験できなかったようです。 ですから、この日はザカリアにとって待ち望んでいた日でした。 ついにこの日が来たのだと、彼は心から喜んで、 白い祭司の衣をまとって、神殿の聖所へと入って行ったのです。 しかしこの日、ザカリアの身に大きな事件が起きました。  

説教#193:「王権は主のものとなる」

「王権は主のものとなる」  聖書 オバデヤ書 15-21、ヨハネの黙示録 22:6-21  2017年 11月 26日 礼拝、小岩教会 オバデヤがこの預言を語ったとき、  ユダヤの人々は、嘆きと悲しみの内にありました。  というのも、自分たちの国である南ユダ王国が、  バビロニア帝国によって攻め込まれた経験をしたからです。  それは、ユダヤの人々にとって、  愛する自分たちの故郷を奪われる出来事でした。  都を壊され、神殿も徹底的に破壊されました。  親しい友人や仲間たち、愛する家族から引き離され、 神が与えてくださった約束の地から追放されて、  見知らぬ地へと連れて行かれていく経験もしました。  神が、自分たちのことを見捨ててしまったかのように感じました。  ですから、彼らにとってこの経験は、「神の怒りの杯」から、  苦難や裁きを飲まされるというような出来事だったのです。  「一体なぜこのようなことが起こってしまったのだろうか?」と、  バビロニア帝国の人々によって、強制的に連れて行かれた、  見知らぬ地において、ユダヤの人々は考え続けました。  そして、「なぜ、あなたはこのようなことをなさったのか?」と、  神に向かって、問いかけ続けました。  最終的に彼らに与えられた答えは、  自分たちが神に背を向けて歩み続けたから、  自分たちは神の裁きを受けたのだ、ということでした。  旧約聖書に記されているイスラエルの歴史を読んでいくと、  何度、預言者たちが警告したとしても、  神の前に立ち帰らない人々の姿が描かれていることに気づくでしょう。  そして、このようなイスラエルの人々の姿を代表するかのように、  北王国イスラエルにも、そして南王国ユダにも、  「神の前に悪を行った」と評価される王たちが多くいたのです。  そのため、自分たちが「神の怒りの杯」を飲む必要があったのは、 当然のことだったと、ユダヤの人々は考えるに至りました。  そして、この悲しみと嘆きに溢れる経験を通して、  過去の自分たちの姿を反省し、神に立ち帰って生きようとしたのです。  そんなユダヤの人々を、神は憐れみ、  エルサレムへと連れ戻してくださいました

説教#192:「主の日は、すべての国に近づいている」

「主の日は、すべての国に近づいている」 聖書 オバデヤ書 1-15、ヨハネの黙示録 21:9-27  2017年 11月 19日 礼拝、小岩教会  【エドムへの裁きの宣告】  オバデヤ書という、このとても小さな預言書は、  エドムに対する神の裁きが語られています。  「エドム」と聞いても、どのような人たちのことなのか、  さっぱりわからない、という感想を抱く方の方が多いと思います。  でも、このように言うと、ピンとくる方も出てくるかもしれません。  イスラエルの祖先の一人であるヤコブの双子のお兄さん、  エサウの子孫がエドムと呼ばれた人たちです。  つまり、イスラエルの人々にとっては、  遠い親戚のような民族が、このエドムと呼ばれる人たちでした。  そんなエドムに対して、神は、預言者オバデヤを通して、  「お前は、大いに侮られる」と裁きの言葉を語られました。  オバデヤを通して語られたエドムへの裁きは、  とても厳しい内容のものでした。  神は、エドムに向かってこう言われます。  「盗人や侵略者がやって来て、  お前たちからたくさんのものを奪い尽くす。  お前たちの宝は奪い尽くされる。  同盟関係にある仲間の国に裏切られ、  お前たちは仲間に欺かれる。  そして、お前たちは敵の手に陥り、  殺戮にあうことになる」と(オバデヤ 5-9参照)。 

説教#191:「主イエスにつまずく者、神の憐れみを受けて立ち上がる者」

「主イエスにつまずく者、神の憐れみを受けて立ち上がる者」  聖書  マタイによる福音書 13:53-58、アモス書 8:9-14   2017年 11月 12日 礼拝、小岩教会  【主イエスにつまずいた故郷の人々】  あるとき、イエスさまは、  ご自分の故郷であるナザレに戻って来られたそうです。  ガリラヤ地方の他の町で行っていたように、  イエスさまは、故郷のナザレにおいても、  シナゴーグと呼ばれる、ユダヤ人たちが神を礼拝する会堂へ行き、  神の言葉を説き明かし、人々に教えを語ったそうです。  このときにイエスさまが置かれた環境は、  いつもと違っていました。  故郷の会堂であったため、そこにいたのは、  恐らく一緒にいたであろう弟子たちを除けば、  幼い頃からイエスさまを知っている人たちばかりです。  彼らは、子どもの頃のイエスさまをよく知っていました。  他の子どもたちと何の変わりもなく、  無邪気に遊んでいた姿を見ていました。  会堂で聖書を学んでいる姿もよく見かけましたし、  毎週、安息日が来るごとに、  一緒に神を礼拝したのも覚えています。  父親のヨセフが大工であったのも知っていましたし、  母親のマリアも、イエスさまのきょうだいたちも、  ナザレの人々にとっては顔なじみでした。  そのため、イエスさまの故郷、ナザレの人々にとって、  イエスさまは「普通の人」と受け止められていたのです。  ですから、会堂で教え始めたイエスさまの言葉を聞いて、  人々は驚きました。  「え?アイツはあのイエスだろ?  聖書について、高い専門性のある教育を受けたわけでもないのに、  大工の息子であるアイツが、  一体、何でこのような教えを語れるんだ?  このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう?」などと、  人々は口々に語り合っていました。 ナザレの人々は自分たちが良く知っている、  大工の息子であるイエスさまが語る教えの言葉を  どうしても受け入れられなかったのです。  そうです、イエスさまの家族や生い立ち、少年時代について  どれほど知っていたとしても、  過去にたくさんの時間を共有していたとして

説教#190:「天の国についての学者であれ」

「天の国についての学者であれ」 聖書 マタイによる福音書 13:51-52、エゼキエル書 47:1-12 2017年 11月 5日 礼拝、小岩教会 【あなた方もまた「天の国の学者」】 これまで天の国についてのたとえ話を話し続けたイエスさまは、 この一連のたとえ話を終えようとして、弟子たちに尋ねました。 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」(マタイ13:51)と。 イエスさまの質問に「分かりました」と答える弟子たちに、 イエスさまは最後にもうひとつ、たとえ話を語られました。 天の国のことを学んだ学者は皆、 自分の倉から新しいものと古いものを取り出す 一家の主人に似ている。(マタイ13:52) イエスさまがこれまで語ってきた、 天の国についてのたとえ話を理解出来たという弟子たちに、 イエスさまは「天の国のことを学んだ学者」の話をしています。 イエスさまは弟子たちにこう言っているのです。 「私が語る天の国のたとえを理解したあなたたちは、 天の国についての学者なんだ」と。 でも、ちょっと待ってください。 イエスさまの弟子たちが学者であるはずはありません。 イエスさまの弟子たちは、ふつうの人ばかりでした。 イエスさまの弟子としてよく知られていた、 ペトロやその兄弟アンデレ、そしてヤコブとヨハネは、 漁師として働いていた、あまり教養のない人たちでした。 また、イエスさまの弟子たちの中には、 徴税人として働いていた人もいました。 お金のことには詳しいかったかもしれませんが、 彼らは当然、学者と呼ばれるほどの人ではありません。 しかし、それにも関わらず、 イエスさまは、天の国のたとえを聞いて、 それを理解した弟子たちのことを「学者」と呼びました。 不思議なことに、天の国についてのたとえは、 教養があるから理解できるわけではありませんでした。 神がその意味を明らかにするときにのみ、 すべての人は、天の国のたとえを理解することができます。 そのため、天の国についての学者となるためには、 私たち自身の力は必要ありません。 ただ、神が明らかにした時にのみ、 私たちは、天の国についてのたとえの意味を理解することが出来る

説教#189:「教会は改革され、改革し続ける」

「教会は改革され、改革し続ける」 聖書 マタイによる福音書 13:44-50、申命記 6:4-5 2017年 10月 29日 礼拝、小岩教会 【宝や真珠よりも、遥かにまさるもの】 イエスさまは、たとえ話を語るとき、 「天の国は次のようにたとえられる」と語り始めることが多かったようです。 「たとえられる」と訳されている言葉は、 もともとの言葉では、「似ている」という意味の単語が用いられています。 ただ、「天の国は、こういうものです」と言い切るのではなく、 「天の国は、こういうものに似ているんですよ」と語るのは、 ちょっと遠回りをしているように感じます。 でも、「天の国」というものは、 イエスさまを通して、初めて知らされたものです。 その意味で、天の国は、私たちにとって、全く未知のものといえます。 そのため、イエスさまは、私たちが何とかして、 天の国について知ることができるようにと願って、 「天の国は、こういうものに似ているんですよ」と、 天の国を様々なものにたとえて、説明されたのです。 イエスさまは、あるときは、「天の国はからし種のようだ」と語り、 天の国は、小さな種のようだけれど、 成長すると大きくなる様子を伝えました。 またあるときは、「パン種のようだ」と語り、 天の国は、人の目には隠されているけれども、 周囲に大きな影響を及ぼすものであると教えてくださいました。 では、きょうのイエスさまの言葉は、 どのような意味を込めて語られたのでしょうか。 イエスさまは3つのたとえを話しています。 ひとつ目は、「畑に隠された宝」に似ている。 ふたつ目は、「商人が高価な真珠を探す」ことに似ている。 そして最後に、漁師が網で魚を捕ることに似ていると言って、 イエスさまは天の国のたとえを語られました。 最初のたとえと、ふたつ目のたとえは、とても似ている話です。 というのは、畑に宝を見つけた人も、 高価な真珠を見つけた人も、 それを手に入れるために、財産のすべてを手放したからです。 ということは、イエスさまは、 私たちにも同じように生きるように求めているのでしょうか? 天の国を自分の手にするために、 この世の富をすべて捨て去って