しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2017年8月13日日曜日

説教#179:「言葉が結ぶ実」

「言葉が結ぶ実」
聖書 マタイによる福音書 12:33-37、イザヤ書 55:6-11
2017年 8月 13日 礼拝、小岩教会

【言葉を語ることは、生き方の問題】
人間にとって、言葉はとても大切なものです。
私たちは日頃、言葉で挨拶を交わし合うことで、お互いに繋がりを持ちます。
言葉を用いて、自分の気持ちや意思を伝え、
質問を投げかけて目の前の人のことを、もっとよく知ろうと努めます。
もちろん、口から語られるものだけが言葉ではありません。
話すときの身振り手振りだって、全身を使って発している言葉です。
目の前の人の表情や声の調子によって、言葉が伝わる場合だってあります。
その意味で、この口で語るものだけが言葉なのではなく、
私たちの全存在、全生涯が言葉となり、人に伝わっていくのです。
そうです、まさに、言葉を語るということは「生き方の問題」なのです。
そう考えると、私たちは言葉に対してますます難しさを感じます。
自分が日頃語る言葉や日々の行い、これまでの人生を振り返るならば、
誰の目から見ても誤りや失敗などは、全くないなどということはあり得ません。
共に生きる人たちとの間に、言葉によって、良い繋がりを築くどころか、
かえって争いを生み出してしまいます。
愛や憐れみに満ちた言葉よりも、怒りや嫉妬に満ちた言葉を吐き出して、
簡単に目の前の人を傷つけてしまいます。
たとえ、誰も傷つけないように口を閉じて黙ったとしても、
表情や行動によって誤解を生み出してしまうことだってあります。
その上、口で語ることと実際の行動とが
完全に一致していないことさえあるのが、私たち人間というものです。
ですから、いつも心から沸き起こる言葉をどのように用いるのかは、
私たちにとって大きな課題なのです。

2017年8月6日日曜日

説教#178:「神の国はあなたたちのところに来ている」

「神の国はあなたたちのところに来ている」
聖書 マタイによる福音書 12:22-32、イザヤ書 49:24-25
2017年 8月 6日 礼拝、小岩教会 

【主イエスを歓迎する人々】 
イエス様の時代の人々にとって、「悪霊の支配」は恐るべきものでした。 
悪霊は人々に病をもたらし、口をきけなくさせ、 
耳から音を奪い、目から光を奪いました。 
また、悪霊は人を迷わせ、堕落させる存在として考えられていました。 
そんな悪霊に憑かれてしまった人々は、
墓場に住むなどして、社会から遠ざかって暮らすことを、 
周りから強いられることさえありました。 
このような形で悪霊に苦しんでいる人々と出会う度に、
イエス様は関わりを持ち、悪霊を追い払われました。 
そうすることによって、悪霊の支配の下で生きる人々を、 
その苦しみから解放し、本来あるべき生活へと戻されたのです。 
このような働きをするイエス様のもとに、 
きょうもまた、悪霊に憑かれた人が、連れられて来たそうです。 
目が見えず、口がきけなくなっていたこの人から、 
悪霊を追い払い、イエス様はその人を癒しました。 
このとき、イエス様の行った業を見た多くの人々は驚き、 
「この人はダビデの子ではないだろうか」(マタイ12:23)と 
声を上げたと、マタイは記しています。 
それは、イエス様を心から歓迎する声でした。 
「ダビデの子」とは、救い主メシアを現す称号です。 
イスラエルを再建して、ダビデの時代のような栄光をこの国に取り戻し、 
世界に平和をもたらす存在として、 
「ダビデの子」と呼ばれる救い主の登場を 
ユダヤの人々は待ち続けていました。 
多くの人々の病を癒し、 
驚くべき権威に満ちた教えを語り、 
時には嵐を静め、 
そして今、自分たちの目の前で、悪霊を追い払った、 
そんなイエス様の姿を見て、その場にいた人々は思ったのです。 
「この人こそが、私たちが待ち望み続けた 
ダビデの子なのではないだうか」と。 

2017年7月30日日曜日

説教#177:「主イエスこそ私たちの望み」

「主イエスこそ私たちの望み」 
聖書 マタイによる福音書 12:15-21、イザヤ書 42:1-4 
2017年 7月 30日 礼拝、小岩教会 

【一度立ち止まって、イエスを見つめよ】 
イエス様が、ユダヤの人々の集う会堂から立ち去られたことから、
今日の物語は始まっています。
イエス様の語る言葉を聞き、その行いを見たファリサイ派の人たちが、
自分に対する殺意や悪意を抱いたことに気づいたから、
イエス様はその場から立ち去ったのかもしれません。
イエス様が出ていくのを見た多くの人々は、
そのようなことなど気付かず、イエス様の後をついて行ったそうです。
いつものように、イエス様は彼らの病を癒しましたが、
このとき不思議なことに、「自分のことを言いふらさないように」と、 
人々を戒めるイエス様の姿が描かれています。
噂が独り歩きして、自分についての誤った理解が
人々の間で広まらないようにしたかったのでしょう。
実際、この頃には既に「あの男は悪霊の頭だ」とか、
「この人こそ、私たちユダヤの民を導いて、ユダヤの国を、
ローマ帝国の支配から解放してくださるに違いない」
などといった声が聞こえていたのですから。
イエス様が「自分のことを言いふらさないように」と人々を戒めた、
この出来事の意味を説明するため、マタイはイザヤ書の言葉を引用しました。
マタイはこれまで、旧約聖書に記されている言葉を引用して、
イエス様によってその言葉が実現したと、何度も書いています。
でも、今回の引用は、これまでと違って長めの引用です。
もしイエス様の今回の行動だけを取り上げて、
この出来事は、預言者イザヤを通して語られた言葉の成就である
と伝えようとするならば、もっと短い引用で済んだはずです。
「彼は争わず、叫ばず、 
その声を聞く者は大通りにはいない」(マタイ12:19) 
とだけ引用すれば、会堂を黙って去って行き、
自分のことを言いふらさないように人々を戒めた、
イエス様の姿がイザヤ書の言葉と重なることがよくわかると思います。
でも、なぜマタイはそのようにはせずに、もっと長い引用をしたのでしょうか。 
彼はきっと、イザヤ書からの長い引用を通して、 
この福音書を読むすべての人々に促しているのだと思います。 
「一度立ち止まって、イエスという方がどのような方であるのか、 
しっかりと見つめなさい」と。 
これまでマタイは、イエス様についての様々な物語を記してきました。
「マタイによる福音書」を最初から読み進めていくとき、
私たちは、罪の現実から私たちを救うために生まれたイエス様と出会います。
また、イエス様が宣教を開始して、
病を癒し、悪霊を追い払い、 貧しい人々や虐げられている人々に
手を差し伸ばしてきた光景を見つめます。
山上の説教と呼ばれる箇所では、
旧約聖書の言葉に根ざした、素晴らしい教えを、
私たちも当時の人々と同じように耳を傾けました。
このように、様々な角度からイエス様を見つめてきた私たちに、
マタイは「一度立ち止まって欲しい」と勧めているのです。
「あなたは、このイエスという人をどのような人物だと受け止めているのか? 
改めて見つめ直してみて欲しい」と、
マタイは私たちに語りかけているのです。 

2017年7月23日日曜日

説教#176:「まことの安息への招き」

「まことの安息への招き」 
聖書 マタイによる福音書 12:1-14、出エジプト記 20:8-11 
2017年 7月 23日 礼拝、小岩教会 

【安息日論争①:ファリサイ派からの批判的な質問】 
ある安息日に、イエス様は、 
ファリサイ派の人々から批判的な質問を受けました。 
「あなたの弟子たちは、
安息日にしてはならないことをしている」(マタイ12:1)と。 
イエス様の弟子たちが麦畑で、
麦の穂を摘んで食べていたのを目にしたため、 
ファリサイ派の人たちは、イエス様にこのような質問を投げかけたのです。 
私たちの目には、「他人の麦畑の麦を、勝手に摘んで、 
食べることがいけないことなのでは?」と思ってしまいますが、 
ユダヤの律法によれば、それは特に問題のない行動でした。 
寧ろ、それは、貧しい人々の生活を守るために必要なことでした。 
ここでファリサイ派の人たちが問題としているのは、 
イエス様の弟子たちが、「安息日に」、 
これらの行動を行ったことにありました。 
さきほど読んでいただいた、「出エジプト記」に記されている通り、 
安息日は、誰もが労働をしない日です(出エジ20:10)。 
この労働が何であるのかについて、聖書には事細かには記されていません。 
ですから、「安息日を心に留め、これを聖別しなさい。 
その日には、いかなる仕事もしてはならない」という言葉を、 
真剣に受け止め、守ろうとすればするほど、人は悩みました。 
そのため、ユダヤの人々は、安息日を適切に守るために、 
労働が何であるのかを考え、議論し続けました。 
どうやら、イエス様の時代にまでなされてきた議論の結果、 
麦を摘んで、それを食べることは労働と受け止められたようです。 
それを思うと、ファリサイ派の人たちがイエス様に尋ねたとき、 
彼らのこの言葉の裏にあった批判の声が一緒に聞こえてきます。 
「彼らの行ないは、彼らの先生である、
あなたの責任でもあるでしょ? 
あなたもまた、安息日の掟を軽んじているのでしょうか?」と。 

2017年7月16日日曜日

説教#175:「キリストの軛を負いなさい」

「キリストの軛を負いなさい」
聖書 マタイによる福音書 11:25-30、エレミヤ書 6:16 
2017年 7月 16日 礼拝、小岩教会 

【慰めと励ましを与える主イエスの言葉】 
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 
休ませてあげよう。」(マタイ11:28) 

イエス様が語ったこの言葉に、これまで、 
多くの信仰者たちは慰めと励ましを受けてきました。 
そして、きっと、ここにいる皆さんもまた、日々の生活を送る中で、 
イエス様のこの言葉から多くの慰めや励ましを
与えられてきたことだと思います。 
身体や心の疲れを感じるとき、 
人との関係の中で傷を負い、悲しむとき、 
また、自分ではどうしようも出来ない困難を前にして、 
頭を抱え、疲れ果てているとき。 
そのようなときに、イエス様は
いつも私たちに語りかけてくださっているのです。 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 
休ませてあげよう。」(マタイ11:28) 

2017年7月9日日曜日

説教#174:「この時代に信仰者として生きる」

「この時代に信仰者として生きる」 
聖書 マタイによる福音書 11:16-24、エレミヤ書 31:31-34 
2017年 7月 9日 礼拝、小岩教会 

【もしも主イエスがこの時代に生きたならば】 
イエス様がもしも、21世紀の日本に生まれ、 
私たちの時代の人々と共に生きたならば、 
一体何を心に思い、どんな言葉を語り、 
どのような行動を始めるのでしょうか。 
私はそのようなことを、たまに考えるのですが、 
想像するのはとても難しいなと感じるばかりです。 
イエス様が生きた時代と、今の時代とでは、異なることが多すぎるからです。 
医療の進歩により、2000年前と比べるならば、 
人間の力で治せない病気は格段に減りました。 
車や飛行機などの移動手段を手に入れた私たちは、 
2000年前の時代は、1ヶ月以上もかけて旅をしていた距離を、 
1日あれば予定を済ませた上で往復することだって可能です。 
また、パソコンやインターネットのおかげで、 
離れたところにいても、会話をすることだって出来るようになりました。 
このような時代において、イエス様は何を感じ、 
何を私たちに語りかけておられるのでしょうか。 
そして、どのように生きるようにと願っておられるのでしょうか。 
それは、この時代に、この場所で生きる、 
一人の信仰者として、いつも考えるべきことだと思うのです。 

2017年7月2日日曜日

説教#173:「救い主は何処にいますか?」

「救い主は何処にいますか?」 
聖書 マタイによる福音書 11:2-15、イザヤ書 35:1-10 
2017年 7月 2日 礼拝、小岩教会 

【救い主を探す洗礼者ヨハネ】 
「洗礼者ヨハネ」と呼ばれる人をご存知でしょうか。 
彼は、4つの福音書すべてに登場し、 
イエス様に洗礼を授けた人として知られています。 
彼は、荒れ野で生活をした禁欲主義者でした。 
らくだの毛衣を身にまとい、腰に革の帯を締めて、 
いなごと野蜜を食べて生活をしていたようです(マタイ3:4)。 
ヨハネは、荒れ野でユダヤの人々に向かって、 
正義と愛に基いて生きるようにと叫びました。 
それこそが神が求めておられることだから、 
これまでの生き方をやめて、神の喜ぶ道を歩むようにと、 
罪の悔い改めを人々に迫りました。 
ヨハネの言葉を聞いた人々は、彼を「預言者」として受け入れ、 
彼に従う弟子たちもいました。 
中には、「彼こそが、救い主なのではないか」と 
考える人たちもいたそうです。 
しかし、ヨハネ自身も救い主を待ち望んでいたユダヤ人の一人でした。 
いえ、実際のところ、ヨハネはそれ以上の存在でした。 
彼は、救い主が来られるための道を、備える存在として、 
神に立てられた人だったのです。 
ですから、ヨハネは荒れ野で人々に向かって 
「天の国は近づいた」(マタイ3:2)と叫ぶとき、 
いつも救い主を探していました。 
「主よ、救い主のために、私は道を整えてきました。 
私たちを罪深い現実から救うために、 
私の後から来られる方は、いつ来られるのでしょうか」。 
ヨハネはいつも、救い主を探していたのです。 
「私たちの救い主は、何処にいますか?」と。 

2017年6月25日日曜日

説教#172:「家族にまさる共同体」

「家族にまさる共同体」
聖書 マタイによる福音書 10:34-11:1、ミカ書 7:6-7
2017年 6月 25日 礼拝、小岩教会 

【主イエスは、家族の中に嵐を起こす】 
それにしても、きょうのイエス様の言葉には驚かされます。 
神の子であるイエス様が地上に来たその理由について、イエス様が
「平和ではなく、剣をもたらすため」(マタイ10:34)と語ったのですから。 
その上、家族が敵対し、分裂するために来たとまで、イエス様は言うのです。 
家族とは、きっと、多くの人が安心する場所でしょう。 
また、家族とは、自分の帰る場所であり、愛する人のいるところです。 
そのような思いが強ければ、強いほど、 
きょうのイエス様の言葉に対して、反感を覚えてしまうことでしょう。 
それに、「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5:9)と
人々に語ったイエス様が、 
「平和ではなく、剣をもたらすために来た」と言うのも、 
何だか矛盾しているように感じます。 
でも、少し立ち止まって考えてみると、 
家族の中で起こる争いのすべては、 
イエス様が来たから始まったわけではないことに気づかされます。
イエス様の時代から、現在に至るまで。 
いえ、人類の歴史が始まったときから、現在に至るまで、 
家族は争いや問題が絶えない場所です。 
私たちは、どのような争いの種があり、 
どのような問題が家庭の中で起こり得るのか、 
また実際に起きているのかを耳にし、また知っています。 
家庭内での暴力、不倫、親子の関係の断絶、育児放棄、 
不公平な家事分担、介護の負担、子どもの教育費、
遺産の相続やお墓を巡る争いなど…… 
挙げればきりがありません。 
家族が問題を抱えることは、現代特有の現象では決してなく、
新約聖書の時代の人々も、それ以前の時代に生きた人も、 
同じように、頭を悩ませていたことでした。
聖書を開き、「創世記」という最初の書物から読み始めてみると、
人間はその歩みの初めから、夫婦の間に、つまり家族の間に、
トラブルを抱えていたことに気付かされます。 
ある時は兄が弟を殺し、またある時は弟が兄をだましました。 
憎しみにかられて、家族を奴隷として売ってしまうことだってありました。 
そうです、イエス様が来る前から、家族の中は問題だらけです。 
いつの時代も、大なり小なり、何らかの問題を家族は抱えています。 
それなのに、なぜイエス様は、既に問題を抱えている家族の中に、 
更に嵐を起こそうとするのでしょうか? 

2017年6月18日日曜日

説教#171:「恐れにとらわれそうな時、思い出して欲しいこと」

「恐れにとらわれそうな時、思い出して欲しいこと」 
聖書 マタイによる福音書 10:26-33、ヨシュア記 1:1-11 
2017年 6月 18日 礼拝、小岩教会 

【3度の「恐れるな」】 
イエス様は、きょうの物語の中で、
弟子たちに「恐れるな」と3度も語っています。 
なぜイエス様は、「恐れるな」と3度も、
彼らに語る必要があったのでしょうか。
それは、イエス様がこれまで語ってきたことと関係があります。
イエス様は、「神の国が近づいた」とイスラエルの町へ伝えに行くようにと、
弟子たちに命じて、彼らを送り出そうとしています。
それに際して、弟子たちがこれから出会うであろう困難や苦しみについて、
イエス様はこれまで語ってきました。
「あなたがたは地方法院に引き渡されるかもしれない。
会堂で鞭打たれることになるかもしれない。
わたしのために総督や王の前に引き出されることになるかもしれない。
あなた方が原因となって、家族の間に争いが起こるかもしれない。
また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれることになる。
だから、人々を警戒しなさい」(マタイ10:17-22)と。
このような困難や苦しみは、
弟子たち自身の将来に起こることとして語られました。
ですから、イエス様が口を開くごとに、弟子たちの心の中で、
将来の不安や恐れが、徐々に徐々に、増してきたと思います。
イエス様から語られた言葉を、深刻に受け止めれば、受け止めるほど、
想像を膨らませるほど、悪いように物事を考えてしまい、
恐れや不安が彼らの心を支配するようになっていきました。
弟子たちに語り掛けているイエス様は、
彼らが恐れや不安にとらわれていき、
見る見るうちに表情が暗くなっていく様子を見たのでしょう。
だから、イエス様は、弟子たちに「恐れるな」と3度も語り掛けたのです。
「私があなた方に語ることは、確かに、恐れを覚えることかもしれない。
しかし、それでも、今あなた方が抱えている不安や恐れに心を支配されて、 
怯え続ける必要がないのだ」と、イエス様は彼らに教えようとされたのです。

2017年6月11日日曜日

説教#170:「父と子と聖霊があなたがたと共に」

「父と子と聖霊があなたがたと共に」 
聖書 マタイによる福音書 10:16-25、サムエル記 上 19:12-16
2017年 6月 11日 礼拝、小岩教会 

【弟子たちに訪れる3つの苦難】
「行って、天の国は近づいたと宣べ伝えなさい」(マタイ10:7)。
そう、弟子たちに伝えて、イエス様が彼らを遣わした場所は、
イスラエルの町でした。
同じ地域に生き、同じ言語を話し、同じ文化を共有し、 
神の民として同じ歴史の上に立っている人々のもとへと、
イエス様は弟子たちを遣わされたのです。
ですから、イスラエルの町の人たちのもとへ行くことは、
弟子たちにとって、一見、簡単なことのように思えます。
彼らに、「天の国は近づいた」と伝えることは、
言葉も、文化も違う、他の国の人に伝えることに比べれば、
はるかに簡単なことに思えます。
でも、さきほど読んでいただいたイエス様の言葉を見てみると、
「実際はそうではない」と、
イエス様が弟子たちに警告していることに気付かされます。
「それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。 
だから、人々を警戒しなさい」(マタイ10:16-17参照)と。 
一体、どういうことなのでしょうか。
イエス様は、具体的に、3つの苦難が弟子たちに、
将来訪れる可能性があると、彼らに伝えました。

①あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる(マタイ10:17) 
②わたしのために総督や王の前に引き出され、引き渡される(マタイ10:18-19参照) 
③兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう(マタイ10:21) 

イエス様が語った、この3つの苦難で共通して、
「引き渡される」「追いやる」と訳されている言葉が用いられています。
「あなたがたは地方法院に引き渡され」る。
総督や王の前に「引き渡されたとき」。
そして、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり」と。
ここで、「引き渡される」また「追いやる」と訳されている言葉は、
イエス様が逮捕され、十字架にかけられる、
イエス様の受難の物語の中で、多く用いられる言葉です。
つまり、「あなた方は、苦難を私と共に味わうような経験をする」と、
イスラエルの町へと宣教のために出て行く弟子たちに、
イエス様は伝えているのです。
実際に、イエス様が語ったような苦難や迫害は、
その後の教会に何度も起こり続けたことでした。 
でも、そもそも、このような苦しい経験をすることは、誰も望んでいません。
それなのに、一体なぜこのようなことが起こるのでしょうか。
イエス様は、その疑問に対して、このように答えます。

わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。(マタイ10:22) 

イエス様は、弟子たちが迫害にあい、人から憎まれ、
苦しむことになるのは、イエス様自身が原因だと語ります。
そのため、これを聞いた多くの人はきっと、
イエス様に、疑問をぶつけたくなったと思います。 
「イエス様、ちょっと待ってください。 
あなたは、人々を憐れんだお方でしょ? 
平和がもたらされることを願った方でしょ? 
それなのに、なぜイエス様の名のために、 
つまり、イエス様を信じ、イエス様に従っていることが原因で、
すべての人に憎まれなければならないのでしょうか?
私たちを送り出すことは、狼の中に羊を送り込むようなものなのですか?
いや、それはさすがに勘弁してください……」という具合に。

2017年6月4日日曜日

説教#169:「旅の心得」

「旅の心得」 
聖書 マタイによる福音書 10:1-15、創世記 12:1-5 
2017年 6月 4日 礼拝、小岩教会 

【主イエスは宣教の旅へと派遣されている】 
きょうの物語において、イエス様は12人の弟子たちを、
ご自分のもとに集めて、彼らを宣教の旅へと送り出しています。
その際、イエス様はこの宣教の旅の目的について、このように語りました。

行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。 (マタイ10:7-8)

イエス様は、その宣教の初めに、「天の国は近づいた」と宣言され、
出会う多くの人々の病を癒し、悪霊を追い払いました。
また、重い皮膚病を患っている人を清め、罪の赦しを宣言し、
亡くなった少女を生き返らせました。
ですから、イエス様が弟子たちに命じたこれらのことは、
イエス様がこれまで行ってきたことでもありました。
「行って、あなたがたも同じようにしなさい」と、
イエス様は弟子たちに命じているのです。
つまり、イエス様が行っていた宣教の働きを、
弟子たち自身の働きとして、引き継いで行なうようにと招かれたのです。
しかし、このイエス様の言葉は、
12人の「使徒」と呼ばれるこの弟子たちにだけ、
特別に与えられた任務ではありません。
イエス様の宣教の働きは、教会に委ねられています。
そして、教会に招かれ、主イエスを信じ、
主イエスに従って生きようとする、私たち一人ひとりに委ねられているのです。
でも、きょうのイエス様の言葉を聞くときに、私たちは思うのです。
「『天の国が近づいた』と宣べ伝えることは出来る。
しかし、病人を癒し、重い皮膚病を患っている人を清め、
悪霊を追い払い、その上、死者を生き返らせることなど、
私たちに出来るのだろうか?」と。
自然の法則を無視した、奇跡的なことが出来るか、出来ないのか。
そういったことは、イエス様が宣教を行なう上で、
重視したことではありませんでしたし、
私たちに伝えたいことでもありませんでした。
そうではなく、今、傷ついている人たちのために、行動を起こすこと。
傷ついている人たちのために、憐れみを示すこと。
それこそが、「天の国が近づいた」と宣言する、
イエス様が行った宣教の業であり、
教会とそこに集うすべての人々に与えられた宣教の働きなのです。
私たちも、この宣教の旅に、弟子たちと同じように招かれているのです。
いや、正確に言うならば、キリストを信じて生きる私たちの生涯は、
天の国、すなわち神の支配が私たちのもとに来たことを、
この世界に向かって宣言し、告げ知らせる旅なのです。

2017年5月28日日曜日

説教#168:「収穫は多いの?」

「収穫は多いの?」
聖書 マタイによる福音書 9:35-38、エレミヤ書 23:1-6
2017年 5月 28日 礼拝、小岩教会

【主イエスにぶつけたい疑問】
きょうのイエス様の言葉を、
私たちはどのように受け止めたら良いのでしょうか。 
「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタイ9:37)とイエス様は言います。 
でも、この言葉を聞いた私たちは思うのです。 
「本当に収穫は多いのでしょうか。 
イエス様、今の日本の教会の状況を見てください。 
多くの教会は、礼拝出席者の数が徐々に減っています。 
その上、高齢化も進んでいますし、 
子どもたちも、かつてのあの頃より激減しました。 
寧ろ、私たちの目には収穫は少なく見えます。
収穫は多いなんて、冗談でしょう?」といった具合に。
そうです、私たちが通常考える収穫とは、 
「どれだけ目に見える成果を生み出すことが出来たか」です。
それは、どれだけキリストを信じる人々が起こされたかであり、 
礼拝出席者がどれだけ増えたのか、とも言うことが出来るでしょう。
また、聖書的・キリスト教的なもの考え方や価値観が、 
この世界にどれだけ広がり、人々から受け入れられたのか。
そういったところで、 私たちは「収穫」の豊かさや乏しさを判断するのです。 
しかし、イエス様は、私たちを取り巻くこのような状況や、
私たちが心で思うことを知った上で、このように宣言されました。 
「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタイ9:37)と。 
ということは、今私たちに与えられている収穫は、神の目には多く見えていて、 
私たちが、収穫に対して、あまりにも貪欲になりすぎているのでしょうか? 
私たちは、過度に収穫を期待し、多くを求めすぎてしまっているのでしょうか? 
このように、イエス様が語った「収穫は多い」という言葉に対して、
どこか納得できないため、私たちはイエス様に対して、
疑問をぶつけたくなってしまうのです。 

2017年5月14日日曜日

説教#167:「嘆きと悲しみは逃げ去る」

「嘆きと悲しみは逃げ去る」
聖書 マタイによる福音書 9:27-34、イザヤ書 35:5-10、詩編40
2017年 5月 14日 礼拝、小岩教会 

【憐れみを必要としていた二人の人】
悲鳴にも似た叫び声を上げながら、2人の人が、 
イエス様のもとに近づいて来ました。 
彼らが抱えていた問題とは、目が見えないことでした。 
生まれつきだったのか、それとも、何らかの事故や病気が原因だったのか、 
彼らが目が見えない、詳しい理由はわかりません。 
どのような理由で、目が見えなくなったにせよ、 
私たちが思う以上に、彼らは困難を抱えていたと思います。 
イエス様の生きた、今から2,000年ほど前の時代は、 
現代のように、点字ブロックが道に敷かれてはいませんでしたし、 
目が見えない人の生活のために必要な配慮は、
それほど多くはなされていませんでした。
ユダヤの律法に「目の見えぬ者の前に 
障害物を置いてはならない」(レビ19:14)とあるように、 
目が見えない人たちを保護し、助けることは、神の命令でした。
しかし、どれだけ、この言葉は守られていたのでしょうか。
実際、目が見えないことが原因で、 
仕事にも就けず、誰の助けも得られずにいたため、 
物乞いをして、何とか生活を続けていた人たちが、
この時代には何人もいました。
生活上の困難に加えて、彼らは多くの苦しみを、その心に負っていました。
「なぜ自分は目が見えないでいるのだろうか。
これは、神から与えられた罰なのではないだろうか。
一体、自分の何が悪かったのだろうか」と。
これらの疑問に答えてくれる人は誰もいませんでした。
いや、このようなことを誰かに尋ねることは、とても勇気のいることです。
もしも誰かに尋ねた結果、「お前が神に愛されていない、
罪人であるからだ」などと言われたならば、もう立ち直れません。
ですから、目が見えない人々の多くは口を閉ざし、
今の自分が置かれている現状を、ただ受け止める他なかったのです。
そこには、将来への希望や、喜びなど、全くありません。
だから、彼らには憐れみが必要でした。
愛をもって自分に向かって伸ばされる、温かく、優しい手が必要でした。
失望し、悲しみで溢れている、彼らが置かれている今のこの状況に、
目を注ぎ、心からの憐れみの言葉を掛けられることが、彼らには必要でした。
でも、何処にそのような人がいるのでしょうか。
中には助けてくれる人もいましたが、多くの場合、
それは一時的な助けに過ぎませんでした。
そして、彼らの耳にいつも聞こえていたのは、
彼らの目の前を人々が通り過ぎていく足音でした。
まるで、自分の存在そのものを否定されているような経験を、
彼らは日常的に、繰り返し、繰り返し、経験していたのです。