しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2017年12月31日日曜日

説教#198:「暗闇が深まる世界に宿る、確かな光」

「暗闇が深まる世界に宿る、確かな光」
聖書 創世記 1:1-5、ヨハネによる福音書 1:1-5
2017年 12月 31日 礼拝、小岩教会

1年の終わりの日、私たちはこの1年の出来事を
その年の「はじめ」から振り返ります。
今年一年、楽しいことも、嬉しいこともありました。
苦しい思いも、悲しい思いも味わいました。
大切な人とのお別れもあれば、
とても嬉しい出会いも経験しました。
テレビをつければ、この1年の間、
2017年のはじめから、きょうに至るまで、
この国や世界でどのようなことが起こったのかを教えてくれます。
喜ばしいニュースも、胸を痛めるような出来事もありました。
励ましを受ける話題もあれば、
これからの未来に不安を抱くような話も耳にしました。
このように、私たちがその年の始まりに目を向けて、
そこから一年を振り返るのは、
新たな始まりを期待しているからなのかもしれません。
次の年こそは、喜ばしい1年にしたい。
この1年の反省を覚えながら、新しい年に期待をするのです。
きょう、この日、
私たちも「はじめ」に目を向けるように招かれています。
それはこの1年の始まりでも、
私たち一人ひとりの生涯の始まりの日でもありません。
ヨハネは、その福音書の始まりでこう言います。
「初めに言があった」と。

2017年12月24日日曜日

説教#197:「闇を打ち破る知らせを歌おう」

「闇を打ち破る知らせを歌おう」
聖書 ルカによる福音書 2:1-20、イザヤ書 9:1-6
2017年 12月 24日 礼拝、小岩教会 

主イエスが産まれたあの日、最初のクリスマスの夜に、 
町から少し離れた荒れ野で、
数人の羊飼いたちが野宿をしていました。 
彼らは、狼に羊の群れが襲われないように、 
羊たちを守るため、数時間ごとに交代をしながら、 
夜通し、羊の番をしていました。 
彼らの多くは、農民でもあったようです。 
ただ、彼らは作物を育てるための土地を持てず、 
仕事で得られるお金もわずかでした。 
そのため、何とか生きていくためのお金を手にするため、 
羊をたくさん持っている人たちの羊を世話していたのです。 
つまり、ユダヤの社会において、この当時の羊飼いたちは、 
社会の底辺にいた、貧しい人たちの一人だったのです。 
羊飼いたちは、自分たちの貧しい境遇で苦しんでいただけでなく、 
ユダヤの人々からは偏見の目で見られていました。 
「ならず者」と呼ばれ、何をしでかすかわからない人たちと、 
羊飼いたちは考えられていたようです。 
ですから、彼らにとって、 
同じ境遇に立たされている仲間たちと一緒に、 
人々の住む町を少し離れて、 
荒れ野で羊の世話をしている方が、心地よかったと思います。 
でも、もちろん、そのような生活に
満足しているわけではありませんでした。
好き好んで、このような生き方をしているわけではありません。 
出来ることなら、人々から偏見の目で見られることなく、 
町の人々と一緒に過ごしたいと願っていました。 
しかし、彼らは、荒れ野に留まるしかなかったのです。 
この夜、彼らを覆っていた暗闇は、 
まるで、彼らの置かれている境遇を象徴するかのような暗さでした。 
そんな彼らに、あの日、最初のクリスマスの日に、 
神から遣わされた一人の天使が、彼らのもとに近づいて来ました。 

2017年12月17日日曜日

説教#196:「沈黙を賛美へと変える神」

「沈黙を賛美へと変える神」
聖書 マラキ書 3:20、ルカによる福音書 1:57-80
2017年 12月 17日 礼拝、小岩教会

子どもの誕生。
それはいつの時代も喜ばしいことでした。
特に、長い間子どもが与えられずにいたエリサベトにとって、
高齢になってから子どもが与えられたことは、
どれほど嬉しかったことでしょうか。
また、エリサベトの子どもの誕生は、
彼女や夫のザカリアの親戚、
そして近所の人たちにとっても大きな喜びでした。
このように、周囲が喜びに包まれている中、
エリサベトの夫のザカリアは、一人、沈黙を守っていました。
いいえ、正確に言えば、彼は神から言葉を奪われていました。
その上、彼の周囲にいた人々が、
身振り手振りをしながら彼に接するその様子から、
どうやら、彼は耳も聞こえなくなっていたようです。
この沈黙は、何も、この時に始まったわけではありませんでした。
半年以上も前に、天使ガブリエルが、彼の前に現れて、
エリサベトが子どもを産むと告げたときから、
その言葉を信じきれなかったあのときから、
ザカリアは神によって、言葉を奪われていたのです。
この沈黙は、彼にとって、どのようなものだったのでしょうか。

2017年12月10日日曜日

説教#195:「小さな賛美に耳を傾けよ」

「小さな賛美に耳を傾けよ」
聖書 創世記 1:31、ルカによる福音書1:26-56
2017年 12月 10日 礼拝、小岩教会

ガリラヤのナザレという町に、 
マリアという名の若い女性がいました。 
あるとき、彼女は旅に出ることにしたそうです。 
彼女が目指した場所とは、親戚のエリサベトが暮らす、 
ユダ地方にある町でした。 
このとき、彼女は急いでエリサベトの家を目指したようです。 
ナザレからユダまで歩いて移動をすると、3~4日かかります。 
そのような旅をすることを、 
マリアが急に思い立った理由は何だったのでしょうか?
それは彼女が旅に出る決断をする前に、
彼女のもとに天使ガブリエルが訪れたことに関係がありました。 
天使が自分の前に現れることさえ、驚くべきことでしたが、 
天使ガブリエルは、もっと信じられないことを彼女に語りました。 
それは、マリアが男の子を産むこと。 
産まれてくる子が、神の子と呼ばれること。 
そして、その子が、永遠にイスラエルを治める者となることでした。 
「どうして自分が選ばれたのだろうか?」 
「どうしてそのようなことが、ありえるのだろうか?」 
不思議に思うこと、疑問に思うことはたくさんありました。 
しかし、マリアは、「神にできないことは何一つない」(ルカ1:37) 
と告げる、ガブリエルの言葉を信じました。 
神がこれから行われること、そして自分の身にこれから起こることを、 
信仰をもって、彼女は受け止めました。 
「お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ1:38)と。 
このときマリアは、親戚のエリサベトが、 
高齢であるにも関わらず、身ごもったことを 
ガブリエルを通して知りました。 
人間の目にはあり得ないこと、信じられないことが、 
エリサベトの身に起こったを知りました。 
だから、マリアはエリサベトに会いたいと思ったのでしょう。 
マリアは、ガブリエルの言葉を完全に信じきれなかったから、 
確信を得るために、エリサベトのもとへ行ったのではありません。 
同じような境遇に立たされているエリサベトと会って、話してみたい。 
神の言葉を受け止めた今、自分が経験している葛藤や喜びを、 
一緒に分かち合いたいと彼女は願ったのだと思います。 
そのような思いが彼女の内側からこみ上げてきたため、 
彼女は急いで、エリサベトのもとへと向かったのです。 
ところで、マリアがエリサベトが暮らす家にたどり着いたとき、 
不思議な出来事が起こったことをルカは記しています。 
マリアがエリサベトと出会い、彼女に挨拶をしたときに、 
マリアの挨拶を聞いて、エリサベトのお腹の中の子どもが 
「おどった」というのです。 
このとき、エリサベトは身ごもって半年ほどでした。 
それは、母親がお腹の中の赤ちゃんが動くのを少しずつ感じ始め、 
だんだんとその胎動が大きくなってくる時期のようです。 
このときに、ルカが「おどった」と報告し、 
「胎内の子は喜んでおどりました」(ルカ1:44)と 
エリサベト自身も語っていることから、 
いつも以上に大きな胎動をエリサベトが感じたことがわかるでしょう。 
そうです、主イエスをみごもったマリアと出会ったとき、 
エリサベトのお腹の中にいる子どもが、喜びおどったのです。
それは、とてもとても小さな賛美でした。
しかし、エリサベトがこの小さな声に耳を澄ますことから、
この小さな賛美の声は、周囲に賛美の歌声として広がっていきました。
エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言いました。

あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、
胎内の子は喜んでおどりました。
主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、
なんと幸いでしょう。(ルカ1:44-45)

これから救い主イエスさまを産むことになるマリアに、
エリサベトは、心から祝福の言葉を伝えています。
このエリサベトの喜びに呼応する形で、
マリアは神への賛美を歌い始めました。

わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
(ルカ1:46-47)

これらの賛美は、エリサベトがお腹の中にいる子どもの小さな声に、
耳を傾けたことから始まりました。
簡単に見過ごすことさえ出来た、胎児の喜びの踊りが、 
エリサベトの喜びとマリアの賛美を引き起こしたのです。 
私たちの目には取るに足りないようにも思える喜びが、 
大きな喜びや賛美の声を神は引き起こされます。 
神の救いの業によって、それは引き起こされるのです。 
しかし、この喜びの賛美は、 
エリサベトが小さな声に耳を傾けたから始まったように見えますが、 
エリサベトの行動が賛美の始まりだったわけではありません。 
何よりもまず、神が私たち人間が罪に苦しむ現実に目を留め、 
御自分の独り子を私たちのもとに送ることを計画されたから、 
そして、エリサベトとマリアに目を留めたから、 
喜びの賛美は引き起こされたのです。 
マリアも、エリサベトも、そのことを理解していました。 
エリサベトは言いました。 
「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め」てくださったと。 
マリアも言いました。 
「身分の低い、この主のはしためにも 
目を留めてくださった」と。 
そうです、私たちの神は、すべての人を心に留めてくださる方です。 
そして、マリアの歌の中で言い表されているように、 
身分の低い人や飢えた人、貧しい人、そして今苦しむ人たちにこそ、 
目を留めて、憐れみ、救いの手を伸ばしてくださるのが、 
私たちの主である神です。 
まさに、神こそが、小さく、かすかな、弱々しい声に、 
悲しみ、嘆き、失望する声に、耳を傾けてくださる方なのです。 
耳を澄ませば、そのような声は、 
この世界にたくさん溢れていることに気づきます。 
企業の宣伝や、町に流れる音楽、日々の忙しさなどによって、 
かき消されてしまうことがありますが、 
喜びも嬉しさも、また悲しみや嘆きも、 
小さな声かもしれませんが、私たちの身の回りで溢れています。 
私たち人間だけでなく、
神によって造られたすべての被造物もまた、 
神によって造られた、「極めて良い」存在として、 
喜びの声を上げています。 
それと同時に、私たち人間の手によって、 
本来あるべき姿を傷つけられている現実に、うめき声を上げています。 
このような小さな声が集まるとき、 
一体、どのような声が打ち勝つのでしょうか。 
ある人は思います。 
喜びなど、簡単にかき消されてしまうほど、 
悲しみや嘆きの声の方が多いのではないでしょうか、と。 
またある人は思うでしょう。 
現実を諦めた声、不満の声、不安を抱えた声、 
そういう声で溢れているのではないか、と。 
ですから、小さな声に耳を傾けるとき、 
何も良いものが産まれて来ない気がします。 
そうであるならば、現状ではどうにもならないと結論づけ、 
諦めてしまうことでしょう。 
しかし、マリアの歌った賛美に耳を澄ますならば、どうでしょうか。
マリアの歌は、イエス・キリストによって、神の救いが来て、 
私たちから喜びが湧き出てくるようになる現実を告げます。
神は、私たちの叫び声に耳を傾けてくださる方です。
私たちの小さな嘆きの声、悲しみ、諦め、不安、怒り、 
様々な声を聞いてくださる方です。 
私たちの声を聞いた上で、神は私たちに目を留めてくださいます。 
そして、私たちの悲しむ現実を覆すために、 
罪を赦し、復活の希望を与え、神の国に招くために、 
神はイエスさまを送ってくださったのです。 
この日、エリサベトのお腹の子である、 
バプテスマのヨハネは、おどることによって、 
イエスさまを通してこの世界に与えられる喜びを告げました。 
この小さな賛美が、すべての人にとっての喜びを予告したのです。 
だから、私たちもこの小さな賛美に耳を傾け、 
神がイエスさまを通して、すべての人に喜びを与えてくださったことを 
しっかりと見つめましょう。 
そして、マリアとエリサベトのように、 
この小さな賛美に、私たちの賛美を重ねましょう。 
喜ぶべきことを共に心から喜びつつ、神を賛美するとき、 
その賛美は大きな賛美へと変えられていきます。 
やがてその喜びの賛美は、悲しみや嘆き、諦めや不安を飲み込み、 
キリストにあって救いが与えられた喜びへと私たちを誘うことでしょう。 

2017年12月3日日曜日

説教#194:「口が閉ざされたところに、救いが来た」

「口が閉ざされたところに、救いが来た」
聖書 ルカによる福音書 1:5-25、ゼカリヤ書 2:14-17
2017年 12月 3日 礼拝、小岩教会 

その日は、祭司であるザカリアにとって、とても喜ばしい日でした。 
年におよそ2回まわってくる、神殿の当番をするこの週、 
彼はアビヤ組の祭司たちで仕事の分担をするためにくじを引いたところ、 
神殿の聖所に入り、祭壇の前に立って、香をたく役目が当たりました。 
香をたいたときに上がる煙は、ユダヤの人々の祈りを象徴していました。 
香をたくことで象徴される人々の祈りを代表して、 
ユダヤの人々のために祈る役割こそ、
この時、ザカリアに与えられた役目です。 
どうやら、祭壇の前で香をたくというこの役目は、通常、
一生の間に1度か2度しか経験できなかったようです。
ですから、この日はザカリアにとって待ち望んでいた日でした。
ついにこの日が来たのだと、彼は心から喜んで、
白い祭司の衣をまとって、神殿の聖所へと入って行ったのです。
しかしこの日、ザカリアの身に大きな事件が起きました。 

2017年11月26日日曜日

説教#193:「王権は主のものとなる」

「王権は主のものとなる」 
聖書 オバデヤ書 15-21、ヨハネの黙示録 22:6-21 
2017年 11月 26日 礼拝、小岩教会

オバデヤがこの預言を語ったとき、 
ユダヤの人々は、嘆きと悲しみの内にありました。 
というのも、自分たちの国である南ユダ王国が、 
バビロニア帝国によって攻め込まれた経験をしたからです。 
それは、ユダヤの人々にとって、 
愛する自分たちの故郷を奪われる出来事でした。 
都を壊され、神殿も徹底的に破壊されました。 
親しい友人や仲間たち、愛する家族から引き離され、
神が与えてくださった約束の地から追放されて、 
見知らぬ地へと連れて行かれていく経験もしました。 
神が、自分たちのことを見捨ててしまったかのように感じました。 
ですから、彼らにとってこの経験は、「神の怒りの杯」から、 
苦難や裁きを飲まされるというような出来事だったのです。 
「一体なぜこのようなことが起こってしまったのだろうか?」と、 
バビロニア帝国の人々によって、強制的に連れて行かれた、 
見知らぬ地において、ユダヤの人々は考え続けました。 
そして、「なぜ、あなたはこのようなことをなさったのか?」と、 
神に向かって、問いかけ続けました。 
最終的に彼らに与えられた答えは、 
自分たちが神に背を向けて歩み続けたから、 
自分たちは神の裁きを受けたのだ、ということでした。 
旧約聖書に記されているイスラエルの歴史を読んでいくと、 
何度、預言者たちが警告したとしても、 
神の前に立ち帰らない人々の姿が描かれていることに気づくでしょう。 
そして、このようなイスラエルの人々の姿を代表するかのように、 
北王国イスラエルにも、そして南王国ユダにも、 
「神の前に悪を行った」と評価される王たちが多くいたのです。 
そのため、自分たちが「神の怒りの杯」を飲む必要があったのは、
当然のことだったと、ユダヤの人々は考えるに至りました。 
そして、この悲しみと嘆きに溢れる経験を通して、 
過去の自分たちの姿を反省し、神に立ち帰って生きようとしたのです。 
そんなユダヤの人々を、神は憐れみ、 
エルサレムへと連れ戻してくださいました。 
彼らは喜びのうちに帰って行きました。 
でも、戻ってきたエルサレムには、 
どのような光景が広がっていたでしょうか。 
崩壊した神殿、廃墟となった町、焼け落ちた城門が、 
彼らの目に映ったエルサレムの姿でした。 
「これが、神が愛された町の姿なのか?」 
「これが、私たちに約束の地として与えた場所の中心地なのか?」 
「これが、神の家とたたえられた場所なのか?」 
そうです、喜びは束の間でした。 
彼らの悲しみと嘆きは続きました。 
このような悲しみと嘆きを抱えているユダヤの人々に、 
神は預言者オバデヤを通して、語られたのです。 

しかし、シオンの山には逃れた者がいて 
そこは聖なる所となる。(オバデヤ 17) 

神は廃墟を見つめて落胆する人々に、 
「あなた方の前には、廃墟が広がっているかもしれない。 
しかし、ここは私が特別に選んだ場所なのだ」と、 
励ましの言葉を語られました。 
そして、それは同時に、エルサレムの回復を見据えた、 
希望に溢れる約束の言葉でした。 
「今は荒れ果てた廃墟かもしれない。 
しかし、私がそこを聖なる所とする」という約束です。 
ユダヤの人々にとって、目の前に広がるこの廃墟が現実でしたが、 
それでも、オバデヤを通して語られた、神の約束の言葉に、
彼らは希望を与えられたのです。 

2017年11月19日日曜日

説教#192:「主の日は、すべての国に近づいている」

「主の日は、すべての国に近づいている」
聖書 オバデヤ書 1-15、ヨハネの黙示録 21:9-27 
2017年 11月 19日 礼拝、小岩教会 

【エドムへの裁きの宣告】 
オバデヤ書という、このとても小さな預言書は、 
エドムに対する神の裁きが語られています。 
「エドム」と聞いても、どのような人たちのことなのか、 
さっぱりわからない、という感想を抱く方の方が多いと思います。 
でも、このように言うと、ピンとくる方も出てくるかもしれません。 
イスラエルの祖先の一人であるヤコブの双子のお兄さん、 
エサウの子孫がエドムと呼ばれた人たちです。 
つまり、イスラエルの人々にとっては、 
遠い親戚のような民族が、このエドムと呼ばれる人たちでした。 
そんなエドムに対して、神は、預言者オバデヤを通して、 
「お前は、大いに侮られる」と裁きの言葉を語られました。 
オバデヤを通して語られたエドムへの裁きは、 
とても厳しい内容のものでした。 
神は、エドムに向かってこう言われます。 
「盗人や侵略者がやって来て、 
お前たちからたくさんのものを奪い尽くす。 
お前たちの宝は奪い尽くされる。 
同盟関係にある仲間の国に裏切られ、 
お前たちは仲間に欺かれる。 
そして、お前たちは敵の手に陥り、 
殺戮にあうことになる」と(オバデヤ 5-9参照)。 

2017年11月12日日曜日

説教#191:「主イエスにつまずく者、神の憐れみを受けて立ち上がる者」

「主イエスにつまずく者、神の憐れみを受けて立ち上がる者」 
聖書 マタイによる福音書 13:53-58、アモス書 8:9-14 
2017年 11月 12日 礼拝、小岩教会 

【主イエスにつまずいた故郷の人々】 
あるとき、イエスさまは、 
ご自分の故郷であるナザレに戻って来られたそうです。 
ガリラヤ地方の他の町で行っていたように、 
イエスさまは、故郷のナザレにおいても、 
シナゴーグと呼ばれる、ユダヤ人たちが神を礼拝する会堂へ行き、 
神の言葉を説き明かし、人々に教えを語ったそうです。 
このときにイエスさまが置かれた環境は、 
いつもと違っていました。 
故郷の会堂であったため、そこにいたのは、 
恐らく一緒にいたであろう弟子たちを除けば、 
幼い頃からイエスさまを知っている人たちばかりです。 
彼らは、子どもの頃のイエスさまをよく知っていました。 
他の子どもたちと何の変わりもなく、 
無邪気に遊んでいた姿を見ていました。 
会堂で聖書を学んでいる姿もよく見かけましたし、 
毎週、安息日が来るごとに、 
一緒に神を礼拝したのも覚えています。 
父親のヨセフが大工であったのも知っていましたし、 
母親のマリアも、イエスさまのきょうだいたちも、 
ナザレの人々にとっては顔なじみでした。 
そのため、イエスさまの故郷、ナザレの人々にとって、 
イエスさまは「普通の人」と受け止められていたのです。 
ですから、会堂で教え始めたイエスさまの言葉を聞いて、 
人々は驚きました。 
「え?アイツはあのイエスだろ? 
聖書について、高い専門性のある教育を受けたわけでもないのに、 
大工の息子であるアイツが、 
一体、何でこのような教えを語れるんだ? 
このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう?」などと、 
人々は口々に語り合っていました。
ナザレの人々は自分たちが良く知っている、 
大工の息子であるイエスさまが語る教えの言葉を 
どうしても受け入れられなかったのです。 
そうです、イエスさまの家族や生い立ち、少年時代について 
どれほど知っていたとしても、 
過去にたくさんの時間を共有していたとしても、 
イエスさまを受け入れるのには何の役にも立たなかったのです。 
むしろ、イエスさまの言葉を聞くことの妨げとなってしまったのです。 

2017年11月5日日曜日

説教#190:「天の国についての学者であれ」

「天の国についての学者であれ」
聖書 マタイによる福音書 13:51-52、エゼキエル書 47:1-12
2017年 11月 5日 礼拝、小岩教会

【あなた方もまた「天の国の学者」】
これまで天の国についてのたとえ話を話し続けたイエスさまは、
この一連のたとえ話を終えようとして、弟子たちに尋ねました。
「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」(マタイ13:51)と。
イエスさまの質問に「分かりました」と答える弟子たちに、
イエスさまは最後にもうひとつ、たとえ話を語られました。

天の国のことを学んだ学者は皆、
自分の倉から新しいものと古いものを取り出す
一家の主人に似ている。(マタイ13:52)

イエスさまがこれまで語ってきた、
天の国についてのたとえ話を理解出来たという弟子たちに、
イエスさまは「天の国のことを学んだ学者」の話をしています。
イエスさまは弟子たちにこう言っているのです。
「私が語る天の国のたとえを理解したあなたたちは、
天の国についての学者なんだ」と。
でも、ちょっと待ってください。
イエスさまの弟子たちが学者であるはずはありません。
イエスさまの弟子たちは、ふつうの人ばかりでした。
イエスさまの弟子としてよく知られていた、
ペトロやその兄弟アンデレ、そしてヤコブとヨハネは、
漁師として働いていた、あまり教養のない人たちでした。
また、イエスさまの弟子たちの中には、
徴税人として働いていた人もいました。
お金のことには詳しいかったかもしれませんが、
彼らは当然、学者と呼ばれるほどの人ではありません。
しかし、それにも関わらず、
イエスさまは、天の国のたとえを聞いて、
それを理解した弟子たちのことを「学者」と呼びました。
不思議なことに、天の国についてのたとえは、
教養があるから理解できるわけではありませんでした。
神がその意味を明らかにするときにのみ、
すべての人は、天の国のたとえを理解することができます。
そのため、天の国についての学者となるためには、
私たち自身の力は必要ありません。
ただ、神が明らかにした時にのみ、
私たちは、天の国についてのたとえの意味を理解することが出来るのです。
その意味で、イエスさまと直接会い、
イエスさまから話を聞いていた人たちだけが、
天の国についての学者なのではありません。
イエスさまは、天の国についてのたとえ話を聞き、
その意味を知った人々を皆、天の国についての学者と呼んでいます。
つまり、きょう、この聖書から語れる言葉を通して、
イエスさまのたとえ話を聞くあなた方もまた、
天の国の学者として生きるように招かれているのです。

2017年10月29日日曜日

説教#189:「教会は改革され、改革し続ける」

「教会は改革され、改革し続ける」
聖書 マタイによる福音書 13:44-50、申命記 6:4-5
2017年 10月 29日 礼拝、小岩教会

【宝や真珠よりも、遥かにまさるもの】
イエスさまは、たとえ話を語るとき、
「天の国は次のようにたとえられる」と語り始めることが多かったようです。
「たとえられる」と訳されている言葉は、
もともとの言葉では、「似ている」という意味の単語が用いられています。
ただ、「天の国は、こういうものです」と言い切るのではなく、
「天の国は、こういうものに似ているんですよ」と語るのは、
ちょっと遠回りをしているように感じます。
でも、「天の国」というものは、
イエスさまを通して、初めて知らされたものです。
その意味で、天の国は、私たちにとって、全く未知のものといえます。
そのため、イエスさまは、私たちが何とかして、
天の国について知ることができるようにと願って、
「天の国は、こういうものに似ているんですよ」と、
天の国を様々なものにたとえて、説明されたのです。
イエスさまは、あるときは、「天の国はからし種のようだ」と語り、
天の国は、小さな種のようだけれど、
成長すると大きくなる様子を伝えました。
またあるときは、「パン種のようだ」と語り、
天の国は、人の目には隠されているけれども、
周囲に大きな影響を及ぼすものであると教えてくださいました。
では、きょうのイエスさまの言葉は、
どのような意味を込めて語られたのでしょうか。
イエスさまは3つのたとえを話しています。
ひとつ目は、「畑に隠された宝」に似ている。
ふたつ目は、「商人が高価な真珠を探す」ことに似ている。
そして最後に、漁師が網で魚を捕ることに似ていると言って、
イエスさまは天の国のたとえを語られました。
最初のたとえと、ふたつ目のたとえは、とても似ている話です。
というのは、畑に宝を見つけた人も、
高価な真珠を見つけた人も、
それを手に入れるために、財産のすべてを手放したからです。
ということは、イエスさまは、
私たちにも同じように生きるように求めているのでしょうか?
天の国を自分の手にするために、
この世の富をすべて捨て去って生きろとでも、言っているのでしょうか?
確かに、富に囚われた生き方は、私たちのあるべき姿ではありません。
「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)
とイエスさまが語られたように、それは神の願う生き方ではありません。
すべてのものは神によって与えられ、
神によって私たちは養われて生きているのですから、
私たちは、すべての造り主である神を信頼して生きるべきです。
でも、だからといって、
財産のすべてを何の考えもなしに手放すのは、無謀です。
ですから、イエスさまは、
あなたの持っている富を手放しなさいと勧めているのではありません。
イエスさまがこのたとえ話に込めた狙いは、
財産のすべてを投げ打ってまで手に入れたいと願う、
宝や真珠があるという事実に、私たちの目を向けるところにあると思います。
「この地上で手にする様々な宝よりも、遥かに勝るものがある」
ということをイエスさまは伝えているのです。
それは何だと思いますか?
そうです、これは「天の国のたとえ」です。
ですから、「私たちがこの地上で手にする様々な宝や富よりも、
遥かに勝って価値のあるものは、天の国なのだ」と
イエスさまは伝えようとしているのです。
それほどまでに価値のある「天の国」とは、「神の支配」のことです。
からし種やパン種の話で示されたように、
確かにそれは、目に見えないものかもしれません。
でも、確かに、すべてに勝る宝として「神の支配」はこの世界にあるのです。