しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2017年10月15日日曜日

説教#187:「神の知恵は語られた」

「神の知恵は語られた」 
聖書 マタイによる福音書 13:34-35、コヘレトの言葉 1:1-11 
2017年 10月 15日 礼拝、小岩教会 

【主イエスはなぜたとえを用いたのか?】
あるときは、結婚式のお祝いの席の話。
あるときは、家を建てる人の話。
またあるときは、種を蒔いた人の話。
というように、イエスさまは、たくさんのたとえ話を人々に語りました。
イエスさまが語るたとえ話は、人々の生活に密着したテーマが選ばれ、
知恵に満ち、ユーモアに溢れ、いつも聞いていて楽しいものでした。
でも、イエスさまの話を聞いていた人々は、
「この人は、一体、何を伝えようとしているのだろう」
「この話にどのような意味が込められているのだろう」と、
いつも頭を悩ませていました。
というのも、イエスさまは、たとえを語られたとき、
多くの場合、その意味を明確には語らなかったからです。
イエスさまの言葉をどのように受け取り、理解するかは、
聴き手である私たち一人ひとりに委ねられていたのです。
時には、たとえをイエスさま自身が解説されたときもありましたが、
それでも、意味がさっぱりわからないことだってありました。
「もっとわかりやすく話してくれれば良いのに、
一体、なぜイエスさまはたとえを用いて語られたのだろう」と、
多くの人は疑問に思い、頭を抱えていたと思います。
「主イエスは、なぜたとえを用いて語り、
そのたとえには、一体どのような意味が込められているのだろうか」と、 
この福音書を記したマタイは、真剣に考えたのだと思います。
そしてあるとき、気づきが与えられ、マタイは確信を得たのだと思います。
「そうだ、イエスさまがたとえを用いて語られたこと。
そのことそのものに、大きな意味があるんだ。
キリストがたとえを用いて人々に語ることこそ、
旧約聖書に記されている預言の成就なのだ」と。 
もしかしたら、たくさんの人たちから聞いて、
これまで書き留められてきた、イエスさまのたとえ話を
整理して、この福音書に書き記す作業を行っているときに、
マタイはこのような気付きが与えられたのかもしれません。
感動したマタイは、イエスさまの言葉を記録する手を一度止めて、
旧約聖書に記されている言葉を引用して、
自分に与えられたその確信を、私たちに伝えることを選びました。
マタイは、私たちに語り掛けています。
「聞いてください。
イエスさまがたとえを用いて語られた意味が、ようやくわかりました。
ほら、『わたしは口を開いてたとえを用い、 
天地創造の時から隠されていたことを告げる』って言葉があるでしょ?
そうです、イエスさまがたとえ話を語ったことによって、
この預言が実現したんですよ!」(マタイ13:35参照)

2017年10月8日日曜日

説教#186:「誰のためのもの?」

「誰のためのもの?」
マタイによる福音書 13:31-33、エレミヤ書 9:22-23
2017年 10月 8日 礼拝、小岩教会

【主イエスが語った「天の国」とは?】
このたとえ話しを通して、
イエスさまは一体、何を語りたかったのでしょうか。
イエスさまがここで語っている「天の国」が、
私たちが将来迎え入れられると約束された、
天の御国と同じ意味だと考えて、
このたとえを読むと、意味がよくわからないと思います。
からし種のように小さいにもかかわらず、
天の御国は、天において大きく広がっていく。
パン種のように初めのうちは隠されているが、
時が来ると、驚くほどの力を発揮し、天の御国は、
天において広がり始める。
さっぱり意味がわかりません。
「天」と呼ばれる場所は、初めから神の領域なのですから、
天の御国が、天においてはじめは小さかったり、
時が来たら広がったりするなんてことが果たしてあるのでしょうか?
地上での生涯を全うし、天に召された人が、
一人、また一人と出てくることによって、
神のみもとへと受け入れられる人がどんどん増えていくのだから、
その受け皿である天が広がっていくことを描いているのでしょうか?
決して、そのような意味ではないと思います。
「わたしの父の家には住む所がたくさんある」(ヨハネ14:2)と、
イエスさまは証言されているのですから、
天の御国が、天において広がっていくという意味を込めて、
イエスさまがこのたとえを語ったとは考えられないと思います。
それならば、「天の国」とは何を意味するのでしょうか。
イエスさまは、「天の国は近づいた」(マタイ4:17)と宣言することから、
ガリラヤの地での宣教をはじめました。
つまり、私たちが天の国に限りなく近づいたと、
イエスさまは言っているのではありません。
そうではなく、天の国の方から、
私たちのもとに限りなく近づいて来たというのです。
天の国とは、もともとの言葉では「神の支配」を意味します。
神の領域である天においては、完全に神の支配はあります。
しかし、この地上、この世界においては、どうでしょうか。
イエス様の時代から、この地上には、
神の支配とは呼べないものの支配が多く広がっていました。
私利私欲で動く権力者をはじめ、
人間の罪や悪こそが、この世界を支配し、
大きな影響を与え続けていました。
それは、今の時代も変わらない現実でしょう。
イエスさまは、このような世界に、神の支配が訪れると宣言されたのです。
つまり、ここで語られている「天の国」を、
そのようなものといて受け止めるのならば、
イエスさまがなぜこのようなたとえを語ったのかがわかります。
私たちに与えられている、天の国、つまり神の支配が、
この地上で増え広がっていくという希望に溢れたたとえとして、
イエスさまはこのたとえを語られたのです。

2017年10月1日日曜日

説教#185:「この世はみな、神の世界」

「この世はみな、神の世界」
聖書 マタイによる福音書 13:24-30、イザヤ書 30:18-26
2017年 10月 1日 礼拝、小岩教会

【麦と毒麦のたとえ】
イエス様は、また新たにたとえを語り始めました。
ある人が良い種を蒔いた畑に、
ある日、人々が眠っている間に毒麦が蒔かれました。
毒麦とは、麦によく似た雑草のことです。
イエス様の話を聞いていた人々の中には、
麦を育てていた人もたくさんいたと思います。
彼らは、この毒麦という名の雑草にいつも悩まされていました。
まだ麦の芽が出たばかりだと、毒麦との区別がつきにくいため、
毒麦を取り除こうと草むしりを始めたとしても、
雑草ではなく、麦を抜いてしまう恐れがあります。
その上、毒麦を正確に見分けて抜くことが出来たとしても、
毒麦の根が麦の根に絡み合って、麦までも抜いてしまう恐れもありました。
もちろん、そのままにしておけば、
穂が出てくる時期には見分けがつくようになります。
でも、それでは毒麦が麦の成長を妨げてしまうのです。
このように当時の人々にとって、麦畑に生えた毒麦は、
彼らの日々の悩みの種でした。
イエス様のたとえ話に登場する、しもべたちも、
当時の人々と同じように、毒麦には悩まされていました。
ある日、主人の麦畑に毒麦が生えていることを発見したとき、
彼らは、主人のもとへ相談に行きます。
「畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。
どこから毒麦が入ったのでしょう」(マタイ13:27)。
「そうですか、敵意を抱いた人々の仕業ですか。
私たちは彼らの思い通りにはさせたくありません。
今すぐ、毒麦の除去作業を始めましょう。」
26節によれば、既に麦の穂が実り、
毒麦との見分けがつく段階になっていたことがわかります。
ですから、このしもべたちの提案も、特に問題はないように思えます。
しかし、畑の持ち主である彼らの主人は言いました。

刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。
(マタイ13:30)

収穫のときまで、毒麦が残っていても全く問題ない。
だから、どうか良い麦を毒麦のために、無駄にしないようにしてくれ。
そのような思いを込めて、この主人はしもべたちに指示を出したのです。

2017年9月17日日曜日

説教#184:「それでも種を蒔こう」

「それでも種を蒔こう」
聖書 マタイによる福音書 13:18-23、ホセア書 10:12
2017年 9月 17日 礼拝、小岩教会

【弟子たちはどのように受け止めただろうか?】
種を蒔く人のたとえ話をイエス様が解説するのを聞いたとき、
弟子たちはこの話を一体どのように受け止めたのでしょうか。
ある人はこう思ったことでしょう。
「自分は神の言葉を聞いても、なかなか理解することが出来ないし、
まるでこの話の道端のように、
頑なな心でしか神の言葉を聞けていません」と。
またある人は、石だらけの土地に自分を重ねて聞きます。
「確かに、聖書が開かれて、神の言葉が自分のもとに届くとき、
私はいつも嬉しくなります。
でも、実際は、神の言葉を蔑ろにした日々を送ってばかり。
神の言葉が、自分の行動にも、
生活にも、また人格にも、全く根付きません。
形だけの信仰をもって生きているこの私こそ、石だらけの土地です」と。
中には、茨の繁る土地に自分を重ねる人もいました。
「信仰をもって生きるのはとても大変なんです。
現実には、私の心を悩ませることが多すぎます。
人間関係もそうですし、お金の使い方にだって悩みます。
悩みすぎて、息苦しい思いをしながら毎日過ごしています」と。
でも、ある人は言います。
「そうです、このたとえで描かれている良い土地とは、
まさに私のことです!
神が語ってくださる言葉を喜んで聞いて、
忠実にそれを行っているから、私の毎日は充実しています。
神の言葉は、私の心で、いや人生で、何十倍にも豊かになりました」と。
このように、種蒔きのたとえ話を聞いた人たちが、
「自分はどの土地かな?」と考えながら聞くことが出来るように、
イエス様は4種類の土地に注目して、たとえを解説したように思えます。
しかし、イエス様は、「自分は4種類の土地の中のどれなのか」と、
弟子たちに考えさせたいのではないと思います。
というのも、人間という存在はもっと複雑な存在だからです。
私たち人間が、4種類の存在に分けられるわけがありません。
寧ろ、ここで語られていることのすべてが、
一人の人の中で常に起こり得ることと捉える方が良いと思います。
つまり、足で踏み潰されて固くなった、道端のように、
私たちの心は頑なになり、神の言葉を拒否することもあれば、
岩だらけの土地のように、根が生えない、
表面的な信仰を抱くこともあります。
たとえ信仰を抱いていても、茨の生い茂る土地のように、
現実の悩みや苦しみに押しつぶされそうになるときもあれば、
反対に、聖書を通して神が語り掛けてくださるとき、
その喜びや感謝が100倍、60倍、30倍にも
増え広がることだってあります。
その意味で、このたとえの解説を聴いている人たちが、
「今、神の言葉を聞いている私の心は、
一体どのような状態にあるのだろうか?」と、
自分に問い掛け、自分と神との関係を顧みることを願って、
イエス様は、このような解説を語られたのです。

2017年9月10日日曜日

説教#183:「あなた方の目と耳は幸いだ」

「あなた方の目と耳は幸いだ」 
マタイによる福音書 13:10-17、イザヤ書 6:9-13
2017年 9月 10日 礼拝、小岩教会 

【なぜたとえを用いてイエスは話すのか?】 
種まく人のたとえをイエス様が語るの聞いたとき、 
弟子たちの心に疑問が湧いてきました。 
「このたとえを通して、 
イエス様が伝えようとしていることは、 
弟子である自分たちには何となくわかる。 
でも、人によっては全くもって意味不明! 
チンプンカンプンに違いない。 
たとえなど用いないで、もっとわかりやすく語れば良いのに、 
何でイエス様はこのような話し方をするのだろうか」と。 
そのため、彼らはたとえを用いて語る理由を、イエス様に尋ねました。 
弟子たちの質問に対して、イエス様はこのように答えます。 

あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、 
あの人たちには許されていないからである。(マタイ13:11) 

「天の国の秘密」とは、一体何を意味しているのでしょうか。 
「秘密」と訳されている言葉は、 
人間の理性では決して知ることの出来ない、 
神の思いや神の計画を意味する言葉です。 
つまり、「天の国」とは、神の側が明らかにしなければ、 
私たち人間は知ることも出来ない。 
いや、見ることも、聞くことも出来ないものなのです。 
しかし、天の国の秘密は、
イエス様を通してすべての人に明らかにされました。 
「天の国は近づいた」と語り、人々を教え、 
病人を癒し、悪霊を追い払い、罪の赦しを与える 
イエス様を通して、天の国は明らかにされました。 
でも、イエス様の言葉を聞き、イエス様の生き様を見たすべての人が、 
イエス様を心から受け入れ、
天の国の到来を信じたわけではありませんでした。 
中にはイエス様と距離を置く人、 
イエス様に強く反発し、イエス様を殺そうとする人までいました。 
ですから、イエス様は、天の国について語るとき、 
たとえを用いて語ることを選ばれたのです。 
自分の言葉を聞いて強く反発してしまう人たちが、 
何とか耳を傾け、天の国について知ることが出来るようにと願って、 
イエス様はたとえを用いて語られたのです。 

2017年9月3日日曜日

説教#182:「種を蒔く人を見よ」

「種を蒔く人を見よ」
聖書 マタイによる福音書 13:1-9、エゼキエル書 36:9-11
2017年 9月 3日 礼拝、小岩教会 

【主イエスがたとえを用いて語った理由】
ガリラヤ湖に浮かぶ舟に腰を掛け、
きょうも、イエス様は人々に語り始めました。
イエス様の語る言葉を、岸辺に立って真剣に聞いていた、
多くの人たちにとって、この「種まき」の話は、
イエス様が語られたたとえ話の中でも、
特に親しみを覚える話だと思います。
というのも、種が蒔かれて、その種が成長するのを見守り、 
収穫に一喜一憂するのは、 
この当時の人々にとって日常的なことだったからです。 
このように、イエス様は、人々に親しみ深い形で、 
神の国についてのたとえを語りました。
でも、イエス様の話は、とてもわかりやすく感じる一方で、 
イエス様がこの話を通して何を伝えようとしているのかは、 
すべての人に明らかだったわけではありません。
ある人は、その意味を理解し、うなずきながら聞いていました。 
またある人は、「この人は何故このような話をするのだろうか」と、 
首をかしげながら、悩んだことでしょう。
イエス様がたとえを用いて語るときは、
多くの場合、「天の国」について、人々に知らせるために語っています。
でも、そもそもなぜイエス様はたとえを用いて、
語る必要があったのでしょうか。
それは、「天の国」とは、
人々がこれまで触れたことがない、未知のものだったからです。
もしも私たちが未知のものについて知ろうとするとき、 
既に知っていることを土台にして理解する必要があります。
ですから、未だ完全にその全貌を知ることが出来ないけれど、
確かに私たちには「天の国」が与えられている、
ということを教えるために、イエス様はたとえを用いられたのです。
たとえ話を聞いて、その光景を想像することを通して、
天の国について創造的に、自由に思い巡らす。
これこそ、イエス様が、
たとえ話を用いて天の国について語ったことの狙いです。

2017年8月27日日曜日

説教#181:「祝福を受け継ぐ家族」

「祝福を受け継ぐ家族」 
聖書 マタイによる福音書 12:46-50、創世記 28:10-19 
2017年 8月 27日 礼拝、小岩教会 

【わたしの母とは、兄弟とは誰か】 
イエス様が人々と語り合っていたとき、 
そこにイエス様の家族がやって来たそうです。 
どうやら、彼らは、イエス様と話したいことがあったため、 
イエス様のところにまで来たようです。 
一体、イエス様に何を話しに来たのか気になるところですが、 
どうやら、それはこの物語を書き留めたマタイの関心ではなかったようです。 
マタイはイエス様の家族が来た理由など説明せず、
別のことに、私たちの目を向けようとしています。 
マタイが注目するようにと私たちに促しているのは、 
「あなたの母と兄弟たちが、 
あなたに話したいことがあって来ていますよ」 
という報告を受けたときのイエス様の返事にです。 
このとき、イエス様はこのように答えて言いました。 

わたしの母とはだれか。 
わたしの兄弟とはだれか。(マタイ12:48) 

「イエス様、そんな当たり前のことを聞き返さないでください。」 
きっと、その場にいた人々はそう思ったと思います。 
「母」という言葉を聞いて、多くの人が真っ先に思い浮かべるのは、 
自分を産み、育ててくれた女性のことです。 
また、兄弟や姉妹については、 
両親またはどちらかの親を同じくする 
子どもたちのことを思い浮かべることでしょう。 
つまり、血による繋がりを意識して、 
私たちは母や兄弟について、そう家族について考えます。 
また、養子を家族の一員として受け入れることも、 
聖書の時代からありました。 
ですので、血の繋がりに加えて、 
法的に必要な手続きを行った関係を 
私たちは家族と呼んでいるといえるでしょう。 

2017年8月20日日曜日

説教#180:「キリストのしるし」

「キリストのしるし」
聖書 マタイによる福音書 12:38-45、ヨナ書 2:1-11
2017年 8月 20日 礼拝、小岩教会

【しるしを求める人々】
しばしば勘違いされることがあるのですが、 
イエス・キリストの「キリスト」とは、 
イエス様の苗字のことではありません。 
つまり、キリスト家のイエスという名前の男がいた、
というわけではないのです。 
イエス様が生きた時代の人々は、
多くの場合、生まれ育った地域や、
家族の名前と結びつけられて名前を呼ばれていました。 
ですから、イエス様は「ナザレのイエス」や「ヨセフの子であるイエス」
といったように、人々から呼ばれていました。
それでは、家族の名前や民族の名前ではないならば、
「キリスト」とはどういう意味で用いられたのでしょうか。
キリストは、救い主メシアを意味する「称号」です。
ですから、イエス・キリストとは、 
「イエスは救い主キリストである」という、信仰を告白する言葉です。 
でも、イエス様は、初めから救い主として、キリストとして、 
ユダヤの人々の間で受け入れられたわけではありません。 
ただ、イエス様の言葉を聞き、 
病の癒しや悪霊を追い払うといった、 
イエス様のなさる様々な行いを見たとき、 
人々は口々に噂するようになりました。
「もしかしたら、この人がキリストかもしれない」と。
この噂はユダヤの人々の間で、 
徐々に期待となって現れてきました。 
でも、だからと言って、 
「このイエスという男がキリストである」という確証など、 
誰も持つことは出来ませんでした。 
だからこそ、本人に聞いて、はっきりさせたかったのでしょう。 
「先生、しるしを見せてください」(マタイ12:38)と、
律法学者とファリサイ派の人々のうちの何人かが、
イエス様にお願いしたと、マタイは報告しています。
「もしも、あなたがキリストであるならば、 
そのしるしを見せることは可能でしょう? 
だから、あなたがキリストであるしるしを私たちに見せてください」。 
確かに、このようなお願いをしたくなるのはよくわかります。 
信じるために、確かなしるし、確かな証拠がほしいのです。 
そのようなしるしがなければ、信じられない。 
まるで、私たちの心の思いを代弁しているかのようです。 

2017年8月13日日曜日

説教#179:「言葉が結ぶ実」

「言葉が結ぶ実」
聖書 マタイによる福音書 12:33-37、イザヤ書 55:6-11
2017年 8月 13日 礼拝、小岩教会

【言葉を語ることは、生き方の問題】
人間にとって、言葉はとても大切なものです。
私たちは日頃、言葉で挨拶を交わし合うことで、お互いに繋がりを持ちます。
言葉を用いて、自分の気持ちや意思を伝え、
質問を投げかけて目の前の人のことを、もっとよく知ろうと努めます。
もちろん、口から語られるものだけが言葉ではありません。
話すときの身振り手振りだって、全身を使って発している言葉です。
目の前の人の表情や声の調子によって、言葉が伝わる場合だってあります。
その意味で、この口で語るものだけが言葉なのではなく、
私たちの全存在、全生涯が言葉となり、人に伝わっていくのです。
そうです、まさに、言葉を語るということは「生き方の問題」なのです。
そう考えると、私たちは言葉に対してますます難しさを感じます。
自分が日頃語る言葉や日々の行い、これまでの人生を振り返るならば、
誰の目から見ても誤りや失敗などは、全くないなどということはあり得ません。
共に生きる人たちとの間に、言葉によって、良い繋がりを築くどころか、
かえって争いを生み出してしまいます。
愛や憐れみに満ちた言葉よりも、怒りや嫉妬に満ちた言葉を吐き出して、
簡単に目の前の人を傷つけてしまいます。
たとえ、誰も傷つけないように口を閉じて黙ったとしても、
表情や行動によって誤解を生み出してしまうことだってあります。
その上、口で語ることと実際の行動とが
完全に一致していないことさえあるのが、私たち人間というものです。
ですから、いつも心から沸き起こる言葉をどのように用いるのかは、
私たちにとって大きな課題なのです。

2017年8月6日日曜日

説教#178:「神の国はあなたたちのところに来ている」

「神の国はあなたたちのところに来ている」
聖書 マタイによる福音書 12:22-32、イザヤ書 49:24-25
2017年 8月 6日 礼拝、小岩教会 

【主イエスを歓迎する人々】 
イエス様の時代の人々にとって、「悪霊の支配」は恐るべきものでした。 
悪霊は人々に病をもたらし、口をきけなくさせ、 
耳から音を奪い、目から光を奪いました。 
また、悪霊は人を迷わせ、堕落させる存在として考えられていました。 
そんな悪霊に憑かれてしまった人々は、
墓場に住むなどして、社会から遠ざかって暮らすことを、 
周りから強いられることさえありました。 
このような形で悪霊に苦しんでいる人々と出会う度に、
イエス様は関わりを持ち、悪霊を追い払われました。 
そうすることによって、悪霊の支配の下で生きる人々を、 
その苦しみから解放し、本来あるべき生活へと戻されたのです。 
このような働きをするイエス様のもとに、 
きょうもまた、悪霊に憑かれた人が、連れられて来たそうです。 
目が見えず、口がきけなくなっていたこの人から、 
悪霊を追い払い、イエス様はその人を癒しました。 
このとき、イエス様の行った業を見た多くの人々は驚き、 
「この人はダビデの子ではないだろうか」(マタイ12:23)と 
声を上げたと、マタイは記しています。 
それは、イエス様を心から歓迎する声でした。 
「ダビデの子」とは、救い主メシアを現す称号です。 
イスラエルを再建して、ダビデの時代のような栄光をこの国に取り戻し、 
世界に平和をもたらす存在として、 
「ダビデの子」と呼ばれる救い主の登場を 
ユダヤの人々は待ち続けていました。 
多くの人々の病を癒し、 
驚くべき権威に満ちた教えを語り、 
時には嵐を静め、 
そして今、自分たちの目の前で、悪霊を追い払った、 
そんなイエス様の姿を見て、その場にいた人々は思ったのです。 
「この人こそが、私たちが待ち望み続けた 
ダビデの子なのではないだうか」と。 

2017年7月30日日曜日

説教#177:「主イエスこそ私たちの望み」

「主イエスこそ私たちの望み」 
聖書 マタイによる福音書 12:15-21、イザヤ書 42:1-4 
2017年 7月 30日 礼拝、小岩教会 

【一度立ち止まって、イエスを見つめよ】 
イエス様が、ユダヤの人々の集う会堂から立ち去られたことから、
今日の物語は始まっています。
イエス様の語る言葉を聞き、その行いを見たファリサイ派の人たちが、
自分に対する殺意や悪意を抱いたことに気づいたから、
イエス様はその場から立ち去ったのかもしれません。
イエス様が出ていくのを見た多くの人々は、
そのようなことなど気付かず、イエス様の後をついて行ったそうです。
いつものように、イエス様は彼らの病を癒しましたが、
このとき不思議なことに、「自分のことを言いふらさないように」と、 
人々を戒めるイエス様の姿が描かれています。
噂が独り歩きして、自分についての誤った理解が
人々の間で広まらないようにしたかったのでしょう。
実際、この頃には既に「あの男は悪霊の頭だ」とか、
「この人こそ、私たちユダヤの民を導いて、ユダヤの国を、
ローマ帝国の支配から解放してくださるに違いない」
などといった声が聞こえていたのですから。
イエス様が「自分のことを言いふらさないように」と人々を戒めた、
この出来事の意味を説明するため、マタイはイザヤ書の言葉を引用しました。
マタイはこれまで、旧約聖書に記されている言葉を引用して、
イエス様によってその言葉が実現したと、何度も書いています。
でも、今回の引用は、これまでと違って長めの引用です。
もしイエス様の今回の行動だけを取り上げて、
この出来事は、預言者イザヤを通して語られた言葉の成就である
と伝えようとするならば、もっと短い引用で済んだはずです。
「彼は争わず、叫ばず、 
その声を聞く者は大通りにはいない」(マタイ12:19) 
とだけ引用すれば、会堂を黙って去って行き、
自分のことを言いふらさないように人々を戒めた、
イエス様の姿がイザヤ書の言葉と重なることがよくわかると思います。
でも、なぜマタイはそのようにはせずに、もっと長い引用をしたのでしょうか。 
彼はきっと、イザヤ書からの長い引用を通して、 
この福音書を読むすべての人々に促しているのだと思います。 
「一度立ち止まって、イエスという方がどのような方であるのか、 
しっかりと見つめなさい」と。 
これまでマタイは、イエス様についての様々な物語を記してきました。
「マタイによる福音書」を最初から読み進めていくとき、
私たちは、罪の現実から私たちを救うために生まれたイエス様と出会います。
また、イエス様が宣教を開始して、
病を癒し、悪霊を追い払い、 貧しい人々や虐げられている人々に
手を差し伸ばしてきた光景を見つめます。
山上の説教と呼ばれる箇所では、
旧約聖書の言葉に根ざした、素晴らしい教えを、
私たちも当時の人々と同じように耳を傾けました。
このように、様々な角度からイエス様を見つめてきた私たちに、
マタイは「一度立ち止まって欲しい」と勧めているのです。
「あなたは、このイエスという人をどのような人物だと受け止めているのか? 
改めて見つめ直してみて欲しい」と、
マタイは私たちに語りかけているのです。