しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2017年1月29日日曜日

説教#152:「神の権威の下で生きる喜び」

「神の権威の下で生きる喜び」 
聖書 マタイによる福音書8:5-13、イザヤ書25:6-10
2017年 1月 29日 礼拝、小岩教会 

【私たちは「権威」に取り囲まれている】
私たちは様々な権威に囲まれて生きています。
時にそれに喜んで従い、
また時にはその権威によって押しつけられ、押さえつけられています。
誰かの権威に甘えることもあれば、
そこからどうにかして逃れようとすることもあるでしょう。
私たちを取り囲み、私たちに働きかける権威とは、
身近なところでいえば、自分の両親。
それは、私たちが生きる上で一番最初に出会う権威です。
そして、私たちは生きる中で様々な権威と出会っていきます。
学校の先生や部活の先輩、バイトや仕事の上司、
そして見えないところでは国家の権力など、
多くの権威が私たちに向かって働いている。
いや、ときには自分自身が権威をもつことだってあります。
私たちはそれを時には認め、時には否定したくなります。
私たちを取り囲む権威が、いつもうまく働くとは限らないからです。
だから、私たちは究極的で、
自分自身の拠り所となる権威をいつも求めます。
それは聖書の時代に生きた人々もそうでした。

2017年1月22日日曜日

説教#151:「言葉よりも、その生き様で」

「言葉よりも、その生き様で」 
聖書 マタイによる福音書8:1-4、レビ記13:45-46
2017年 1月 22日 礼拝、小岩教会 

【主イエスのもとに近寄ってきた「レプラ」患者】
きょうの物語は、イエス様が山から下りて来ることから始まっています。 
イエス様は、マタイによる福音書の5章から始まった
「山上の説教」と呼ばれる教えを語り終えて、山から下りて来ました。
イエス様の教えを聞いて、それに感動し、心を動かされたたくさんの人々が、
この時、イエス様に従ってついて来ました。
するとその時、一人の人がイエス様のもとに近づいてきました。 
イエス様のもとに近づいてきた人は、
「重い皮膚病を患っている」人であったと、マタイは報告しています。
この人が「重い皮膚病」を患っていることは、誰の目から見ても明らかでした。 
それは、「重い皮膚病」に苦しんでいる彼の皮膚の状態が、
誰の目から見ても、明らかに病気であったからというわけではありません。
というのも、この「重い皮膚病」と訳されているギリシア語の「レプラ」は、
特定の病気を指す言葉ではなく、様々な皮膚病を意味する言葉だったからです。
ですから、「レプラ」と呼ばれる病を患っている人の中には、
誰の目から見ても明らかに病気だとわかるような「重い皮膚病」の人もいれば、
言われないとわからないほどの「軽い皮膚病」の人もいました。
それなのに、なぜイエス様のもとに近づいてきたこの男は、
誰の目から見ても「レプラ」患者であると判断出来たのでしょうか。
それには、さきほど読んで頂いた「レビ記」の言葉が深く関係しています。
そこには、このように記されていました。
重い皮膚病(=レプラ。*ヘブライ語では「ツァラアト」)にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。(レビ記13:45)
イエス様のもとに来たレプラを患った人も、
ユダヤの社会に生きていた人ですから、
当然彼も、ユダヤの律法である聖書には従っています。
そうであるならば、レプラを患っている彼も、
イエス様に近づいてきたこの時、律法の命令に従って、
破けた衣服を着て、口ひげを手や布で覆って、 
周囲の人々に向かって叫びながら近寄ってきたことが想像できるでしょう。
「わたしは汚れた者です。汚れた者です」(レビ13:45)と言って。 

2017年1月15日日曜日

説教#150:「驚きに満ちた旅」

「驚きに満ちた旅」
聖書 ルカによる福音書2:41-52、サムエル記 上 2:18-21
2017年 1月 15日 礼拝、小岩教会

【トラブルに溢れる日々】
事故やトラブルには、出来る限り遭いたくありません。
でも、私たちが生きる限り、
事故やトラブルに遭遇することは、どうしても避けられません。
どれだけ注意を払ったていたとしても、怪我はしますし、失敗もします。
私たちはたった一人で生きているのではなく、
様々な人と日々関わり合って、助け合いながら生きています。
だからこそ、人との関わりの中で起こるトラブルは、
よく耳にしますし、私たち自身も経験します。
大切な約束を忘れてしまったり、
何気ない一言で目の前にいる人を傷つけ、悲しませてしまったりすることで、
私たちはトラブルを引き起こしてしまいます。
時に口論になったり、
また時には、お互いに理解し合えずにすれ違い合ってしまったりします。
このようなトラブルに巻き込まれたり、事故を引き起こしてしまったとき、
私たちはそれらを何とか解決しなければと、焦り、心を奪われます。
ですから、そういった面倒事は
出来る限り避けたいというのが、正直なところです。
そんな誰も望んでいないようなトラブルが、 
イエス様の両親に訪れたことを、ルカはきょうの物語を通して報告しています。 

2017年1月8日日曜日

説教#149:「その目で神の救いを見よ」

「その目で神の救いを見よ」 
聖書 ルカによる福音書2:22-40、ダニエル書7:13-14 
2017年 1月 8日 礼拝、小岩教会 

【神の救いを待ち望む人々:シメオンとアンナ】 
イエス様が生まれて40日が過ぎてから(ルカ2:22、レビ12:2-4)、 
ヨセフとマリアはイエス様をエルサレムへと連れて行きました。 
ユダヤの律法によれば、最初の男の子が生まれた際、
その子を神の前に捧げる儀式をする必要がありました。
そのため、イエス様の両親は律法に従って、
神殿で鳩を捧げるために、エルサレムへとやって来たのです。 
この時、イエス様の家族がふたりの人物と出会ったと、ルカは報告しています。 
ひとりは、シメオンという名の男性。
そして、もうひとりはアンナという名の女性で、
彼女は神の言葉を人々に伝える預言者でした(ルカ2:36)。
ルカは、シメオンの言葉を多く記録し(ルカ2:29-32、34-35)、
アンナについては短い報告で留めています(ルカ2:36-37)。
偶然同じ場所に居合わせたため、この二人は同じ話の中に登場しています。
そのため、一見この二人には強い繋がりがないように感じます。
しかし、ルカの記述から、この二人に共通することがあったことがわかります。
それは、シメオンも、アンナも、
神の救いを「待ち望む人」であったということです。
では、シメオンやアンナはどのような救いを待ち望んでいたのでしょうか。
ルカによれば、シメオンは「イスラエルの慰め」を待ち望んでいたそうです。
彼は、神の慰めが自分たちイスラエルの民に必要であると感じていました。
ということは、現在のイスラエルが神の民としての理想からかけ離れ、
あるべき状態にはないと、シメオンは感じていたということでしょう。
それは、シメオンだけでなく、
その時代の多くのユダヤ人たちが感じていたことでした。
その根本的な原因のひとつは、
イスラエルの地がローマ帝国の属州となっていたことにありました。
彼らの心からの願いは、ローマ帝国の支配から完全に解放されて、
神に与えられたこの約束の地で、喜びをもって暮らすことでした。
しかし、その願いがかなわないからこそ、
シメオンをはじめ、多くのユダヤ人たちは、神の慰めを求め続けたのです。
神が自分たちを憐れみ、イスラエルを慰めるために、
救いの御手を伸ばしてくださることを、彼らは待ち望み続けていました。
それは、女預言者であるアンナも心から待ち望んでいたことでした。
だからこそ、彼女はイエス様と出会った後、 
その喜びやこの幼子を通して与えられる希望を、 
「エルサレムの救いを待ち望んでいる人々」に話したのです。
まさに、神の救いを待ち望む人々のもとに、
救い主として、幼子のイエス様が来られたのです。

2017年1月1日日曜日

説教#148:「主イエスに結ばれて生きよ」

「主イエスに結ばれて生きよ」
聖書 ルカによる福音書2:21、申命記30:1-10
2017年 1月 1日 礼拝、小岩教会

【1月1日は主イエスの「命名日」】 
新年あけましておめでとうございます。 
皆さんの新しい1年の歩みの上に、主キリストの平和と祝福を祈ります。 
さて、新しい年を迎えるとき、
私たちはこれからの1年の予定をあれこれと思い巡らし、
色々な計画を立て、いくつかの決意をもって新しい年を歩み始めます。 
そのような計画や決意の影には、 
昨年の1年の歩みを振り返った中で都合の悪いことや反省をリセットし、 
出来るなら忘れ去って、切り替えて歩みたいという思いがあります。 
もちろん、それは決して悪いことではありません。
起こった出来事を完全になかったことにすることは出来ませんが、
それでも、信仰者は主キリストにあって、 
いつでも、いつからでも新しく歩み始めることが出来るのですから。 
でも、私たちを取り囲む年末年始の雰囲気に流されて、 
一緒に忘れてしまってはいけないことがあります。
それは、イエス・キリストがお生まれになったという知らせです。
クリスマスの後こそ、私たちはイエス様の誕生を喜ぶべきではありませんか。
きょうの箇所で、ルカは短いけれども、重要なことを私たちに伝えます。 

八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。(ルカ2:21)

教会はおよそ2000年間の間、 
12月25日にイエス様の誕生をお祝いしてきました。 
12月25日から数えて8日目が、1月1日です。 
そのため、新しい年の最初の日は、 
イエス・キリストの「命名日」としてお祝いされています。