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説教#156:「子と呼ばれる恵み」

「子と呼ばれる恵み」  聖書 マタイによる福音書 9:1-8、出エジプト記 34:4-9  2017年 2月 26日 礼拝、小岩教会  【何と呼ばれるか?】  どのように名前を呼ばれているのかによって、  呼ばれる人と呼びかける人との関係性がわかることがあります。  たとえば、自分が普段、周りの人たちから、 どのように呼ばれているのかを思い返してみると、 そのことをよく実感できるかと思います。 学校の先生や友人たち、また近所の人たちからは、 何と呼ばれているでしょうか。 両親や家族、親戚の人たちは、どのように自分のことを呼び、 子どもや孫たちからは何と呼ばれているでしょうか。 呼び方、また呼ばれ方で、そこにある関係性が何となく見えてくる気がします。 先ほど読んでいただいた、 マタイによる福音書の物語に目を移してみるとどうでしょうか。 この物語において、イエス様は、 自分の元に連れられてきた「中風」と呼ばれる病気を患っている人を、 「子よ」(マタイ9:2)と呼んでいます。 もちろん、イエス様とこの中風の人との間に、 血のつながりがあったわけではありませんし、 この人が幼い子どもであったわけでもありません。 しかし、それでも、イエス様はこの人に「子よ」と言われたのです。

説教#155:「キリスト者の価値観」

「キリスト者の価値観」 聖書 マタイによる福音書 8:28-34、創世記 13:8-18  2017年 2月 19日 礼拝、小岩教会  【どんな価値観の下で生きているか?】  価値の判断基準は、人それぞれ異なります。  たとえば、突然手に入ったお金を、何に使うのかによって、  人の価値観が、如実に現れることがあります。 ある人は、手にしたそのお金を貯金することを選ぶでしょう。 ある人は、家族と美味しい食事を食べるために使います。 ある人は、 趣味のために全てを注ぎ込み、 またある人は、本来自分の手元にあるものではなかったものだと捉えて、 貧しい人たちや災害で苦しむ人たちのために募金をしたり、 教会の働きのために献金することを選びます。 まさに、人それぞれです。 このような価値観は、一体どのように形作られていくのでしょうか。 人間誰もが、家庭や生まれた国、そしてその時代の影響を受けて、 幼い頃から、価値観や物の考え方を身につけていきます。 そしてその後、出会う友人たちや先生、書物や経験などから学んだこと、  政治的な立場、宗教、経済状況などから、様々な影響を受けることによって、 私たちの価値観は形づくられてきました。 そんな私たちに対して、先ほど朗読していただいた、 マタイによる福音書の物語は、問い掛けています。  「あなたはどのような価値観を持って生きているのですか?」と。 そして、そのように問い掛けながら、マタイはこの物語を通して、 イエス様の「弟子」と呼ばれる者がもつ価値観を紹介しています。

説教#154:「向こう岸に行きなさい」

「向こう岸に行きなさい」 聖書 マタイによる福音書 8:18-27、創世記 8:1-5 2017年 2月 12日 礼拝、小岩教会  【「人生の海の嵐に」】  先ほど一緒に歌った讃美歌「人生の海の嵐に」のように、  私たちは、生きる上で経験する苦しみや困難を、  「嵐」と表現することがあります。  それは、日々の歩みの中で私たちが経験する出来事が、 自分では抵抗することが出来ないものと実感しているからです。 傘も全く役に立たないような、激しい嵐の中では、 風に吹かれ、雨に打たれるまま、その身を任せなければなりません。 「人生の嵐」と呼びたくなるような、そのような出来事が起こるとき、 私たちは嵐が吹き荒れる状況に流されるしか道がなく、 自分には為す術など何もないと思い知らされます。  そのような中では、たとえ信仰をもって歩んでいたとしても、 「助けてください、主よ」と叫び、神に祈るのだけで精一杯です。 イエス様の弟子たちも、この時、 まさにそのような状況に立たされていました。 彼らは、ガリラヤ湖を舟で横切って、その向こう岸へと行くため、  イエス様と一緒に舟に乗りました。 いざ舟を漕ぎ出し始めると、突然の激しい嵐に襲われ、 彼らの乗っていた舟は、波にのまれそうになりました。 ここで「嵐」と訳されているもともとの言葉は、 「地震」という意味を持っています。 そのため、波と共に、彼らの乗っていた舟が激しい地震のように揺れ、 高波が何度も何度も舟を襲い、舟が沈みそうになっている。 そんな様子が、この言葉からよく伝わってくるでしょう。 弟子たちは、このような激しい嵐の中、怯えながら、舟に乗っています。 そこに、安全な場所はなく、逃げることも出来ず、 彼らは、ただ嵐が過ぎ去るのを待つしかありませんでした。 そんな、人間の力では制御できない、抵抗することも不可能な力に 、 弟子たちは巻き込まれ、生命の危険に晒されたのです。

説教#153:「病を担う神」

「病を担う神」  聖書 マタイによる福音書 8:14-17、イザヤ書 53:3-5、詩編90篇 2017年 2月 5日 礼拝、小岩教会  【自らの弱さ・儚さに嘆く生涯】  「病」は、いつの時代の人にとっても悩みの種です。  出来る限り、健康で過ごしたいと願っても、  病は突然、私たちの身に降り掛かってきます。  病気になると、身体が弱るため、 今まで出来ると思っていたことが出来なくなります。 そのため、予定していたことを諦める必要が生じることもあります。 病気の種類によっては、身体だけでなく、心まで弱ってしまいます。 このようにして、病を患うとき、 私たちは自分の弱さや無力さを実感することになるのです。 確かに、聖書の時代よりも、今の時代のほうが遥かに医療が進んでいます。 でも、とはいえ、 病になる私たちの身体や、  それを受け入れる心が強くなったわけではありません。  ですから、どんなに医療が進んでも、  どんなに人の寿命が伸びたとしても、  病を抱えるとき、私たちは自分の肉体の弱さを覚え、  人の人生の儚さに嘆きたくなります。  きょうのこの礼拝の中で一緒に声を合わせて読んだ、  詩編90篇の詩人の嘆きの言葉は、私たちの嘆きでもあると思います。  人生の年月は70年程のものです。  健やかな人が80年を数えても  得るところは労苦と災いにすぎません。  瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。(詩編90:10) 新約聖書の時代、イエス様に病を癒してもらった人々も、  今の私たちと変わらず、病を抱えるとき、  自分の弱さに直面し、嘆き続けました。  医療が進んだ現代とは違って、この時代の人々は、 今では簡単に治る病でさえ、命を落とす危険もありました。  そのため、現代に生きる私たち以上に、  人生の苦しみや、人の生命の儚さについて知り、  人間の弱さに直面する機会は多くあったと思います。