しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2017年7月30日日曜日

説教#177:「主イエスこそ私たちの望み」

「主イエスこそ私たちの望み」 
聖書 マタイによる福音書 12:15-21、イザヤ書 42:1-4 
2017年 7月 30日 礼拝、小岩教会 

【一度立ち止まって、イエスを見つめよ】 
イエス様が、ユダヤの人々の集う会堂から立ち去られたことから、
今日の物語は始まっています。
イエス様の語る言葉を聞き、その行いを見たファリサイ派の人たちが、
自分に対する殺意や悪意を抱いたことに気づいたから、
イエス様はその場から立ち去ったのかもしれません。
イエス様が出ていくのを見た多くの人々は、
そのようなことなど気付かず、イエス様の後をついて行ったそうです。
いつものように、イエス様は彼らの病を癒しましたが、
このとき不思議なことに、「自分のことを言いふらさないように」と、 
人々を戒めるイエス様の姿が描かれています。
噂が独り歩きして、自分についての誤った理解が
人々の間で広まらないようにしたかったのでしょう。
実際、この頃には既に「あの男は悪霊の頭だ」とか、
「この人こそ、私たちユダヤの民を導いて、ユダヤの国を、
ローマ帝国の支配から解放してくださるに違いない」
などといった声が聞こえていたのですから。
イエス様が「自分のことを言いふらさないように」と人々を戒めた、
この出来事の意味を説明するため、マタイはイザヤ書の言葉を引用しました。
マタイはこれまで、旧約聖書に記されている言葉を引用して、
イエス様によってその言葉が実現したと、何度も書いています。
でも、今回の引用は、これまでと違って長めの引用です。
もしイエス様の今回の行動だけを取り上げて、
この出来事は、預言者イザヤを通して語られた言葉の成就である
と伝えようとするならば、もっと短い引用で済んだはずです。
「彼は争わず、叫ばず、 
その声を聞く者は大通りにはいない」(マタイ12:19) 
とだけ引用すれば、会堂を黙って去って行き、
自分のことを言いふらさないように人々を戒めた、
イエス様の姿がイザヤ書の言葉と重なることがよくわかると思います。
でも、なぜマタイはそのようにはせずに、もっと長い引用をしたのでしょうか。 
彼はきっと、イザヤ書からの長い引用を通して、 
この福音書を読むすべての人々に促しているのだと思います。 
「一度立ち止まって、イエスという方がどのような方であるのか、 
しっかりと見つめなさい」と。 
これまでマタイは、イエス様についての様々な物語を記してきました。
「マタイによる福音書」を最初から読み進めていくとき、
私たちは、罪の現実から私たちを救うために生まれたイエス様と出会います。
また、イエス様が宣教を開始して、
病を癒し、悪霊を追い払い、 貧しい人々や虐げられている人々に
手を差し伸ばしてきた光景を見つめます。
山上の説教と呼ばれる箇所では、
旧約聖書の言葉に根ざした、素晴らしい教えを、
私たちも当時の人々と同じように耳を傾けました。
このように、様々な角度からイエス様を見つめてきた私たちに、
マタイは「一度立ち止まって欲しい」と勧めているのです。
「あなたは、このイエスという人をどのような人物だと受け止めているのか? 
改めて見つめ直してみて欲しい」と、
マタイは私たちに語りかけているのです。 

2017年7月23日日曜日

説教#176:「まことの安息への招き」

「まことの安息への招き」 
聖書 マタイによる福音書 12:1-14、出エジプト記 20:8-11 
2017年 7月 23日 礼拝、小岩教会 

【安息日論争①:ファリサイ派からの批判的な質問】 
ある安息日に、イエス様は、 
ファリサイ派の人々から批判的な質問を受けました。 
「あなたの弟子たちは、
安息日にしてはならないことをしている」(マタイ12:1)と。 
イエス様の弟子たちが麦畑で、
麦の穂を摘んで食べていたのを目にしたため、 
ファリサイ派の人たちは、イエス様にこのような質問を投げかけたのです。 
私たちの目には、「他人の麦畑の麦を、勝手に摘んで、 
食べることがいけないことなのでは?」と思ってしまいますが、 
ユダヤの律法によれば、それは特に問題のない行動でした。 
寧ろ、それは、貧しい人々の生活を守るために必要なことでした。 
ここでファリサイ派の人たちが問題としているのは、 
イエス様の弟子たちが、「安息日に」、 
これらの行動を行ったことにありました。 
さきほど読んでいただいた、「出エジプト記」に記されている通り、 
安息日は、誰もが労働をしない日です(出エジ20:10)。 
この労働が何であるのかについて、聖書には事細かには記されていません。 
ですから、「安息日を心に留め、これを聖別しなさい。 
その日には、いかなる仕事もしてはならない」という言葉を、 
真剣に受け止め、守ろうとすればするほど、人は悩みました。 
そのため、ユダヤの人々は、安息日を適切に守るために、 
労働が何であるのかを考え、議論し続けました。 
どうやら、イエス様の時代にまでなされてきた議論の結果、 
麦を摘んで、それを食べることは労働と受け止められたようです。 
それを思うと、ファリサイ派の人たちがイエス様に尋ねたとき、 
彼らのこの言葉の裏にあった批判の声が一緒に聞こえてきます。 
「彼らの行ないは、彼らの先生である、
あなたの責任でもあるでしょ? 
あなたもまた、安息日の掟を軽んじているのでしょうか?」と。 

2017年7月16日日曜日

説教#175:「キリストの軛を負いなさい」

「キリストの軛を負いなさい」
聖書 マタイによる福音書 11:25-30、エレミヤ書 6:16 
2017年 7月 16日 礼拝、小岩教会 

【慰めと励ましを与える主イエスの言葉】 
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 
休ませてあげよう。」(マタイ11:28) 

イエス様が語ったこの言葉に、これまで、 
多くの信仰者たちは慰めと励ましを受けてきました。 
そして、きっと、ここにいる皆さんもまた、日々の生活を送る中で、 
イエス様のこの言葉から多くの慰めや励ましを
与えられてきたことだと思います。 
身体や心の疲れを感じるとき、 
人との関係の中で傷を負い、悲しむとき、 
また、自分ではどうしようも出来ない困難を前にして、 
頭を抱え、疲れ果てているとき。 
そのようなときに、イエス様は
いつも私たちに語りかけてくださっているのです。 

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。 
休ませてあげよう。」(マタイ11:28) 

2017年7月9日日曜日

説教#174:「この時代に信仰者として生きる」

「この時代に信仰者として生きる」 
聖書 マタイによる福音書 11:16-24、エレミヤ書 31:31-34 
2017年 7月 9日 礼拝、小岩教会 

【もしも主イエスがこの時代に生きたならば】 
イエス様がもしも、21世紀の日本に生まれ、 
私たちの時代の人々と共に生きたならば、 
一体何を心に思い、どんな言葉を語り、 
どのような行動を始めるのでしょうか。 
私はそのようなことを、たまに考えるのですが、 
想像するのはとても難しいなと感じるばかりです。 
イエス様が生きた時代と、今の時代とでは、異なることが多すぎるからです。 
医療の進歩により、2000年前と比べるならば、 
人間の力で治せない病気は格段に減りました。 
車や飛行機などの移動手段を手に入れた私たちは、 
2000年前の時代は、1ヶ月以上もかけて旅をしていた距離を、 
1日あれば予定を済ませた上で往復することだって可能です。 
また、パソコンやインターネットのおかげで、 
離れたところにいても、会話をすることだって出来るようになりました。 
このような時代において、イエス様は何を感じ、 
何を私たちに語りかけておられるのでしょうか。 
そして、どのように生きるようにと願っておられるのでしょうか。 
それは、この時代に、この場所で生きる、 
一人の信仰者として、いつも考えるべきことだと思うのです。 

2017年7月2日日曜日

説教#173:「救い主は何処にいますか?」

「救い主は何処にいますか?」 
聖書 マタイによる福音書 11:2-15、イザヤ書 35:1-10 
2017年 7月 2日 礼拝、小岩教会 

【救い主を探す洗礼者ヨハネ】 
「洗礼者ヨハネ」と呼ばれる人をご存知でしょうか。 
彼は、4つの福音書すべてに登場し、 
イエス様に洗礼を授けた人として知られています。 
彼は、荒れ野で生活をした禁欲主義者でした。 
らくだの毛衣を身にまとい、腰に革の帯を締めて、 
いなごと野蜜を食べて生活をしていたようです(マタイ3:4)。 
ヨハネは、荒れ野でユダヤの人々に向かって、 
正義と愛に基いて生きるようにと叫びました。 
それこそが神が求めておられることだから、 
これまでの生き方をやめて、神の喜ぶ道を歩むようにと、 
罪の悔い改めを人々に迫りました。 
ヨハネの言葉を聞いた人々は、彼を「預言者」として受け入れ、 
彼に従う弟子たちもいました。 
中には、「彼こそが、救い主なのではないか」と 
考える人たちもいたそうです。 
しかし、ヨハネ自身も救い主を待ち望んでいたユダヤ人の一人でした。 
いえ、実際のところ、ヨハネはそれ以上の存在でした。 
彼は、救い主が来られるための道を、備える存在として、 
神に立てられた人だったのです。 
ですから、ヨハネは荒れ野で人々に向かって 
「天の国は近づいた」(マタイ3:2)と叫ぶとき、 
いつも救い主を探していました。 
「主よ、救い主のために、私は道を整えてきました。 
私たちを罪深い現実から救うために、 
私の後から来られる方は、いつ来られるのでしょうか」。 
ヨハネはいつも、救い主を探していたのです。 
「私たちの救い主は、何処にいますか?」と。