説教#177:「主イエスこそ私たちの望み」
「主イエスこそ私たちの望み」 聖書 マタイによる福音書 12:15-21、イザヤ書 42:1-4 2017年 7月 30日 礼拝、小岩教会 【一度立ち止まって、イエスを見つめよ】 イエス様が、ユダヤの人々の集う会堂から立ち去られたことから、 今日の物語は始まっています。 イエス様の語る言葉を聞き、その行いを見たファリサイ派の人たちが、 自分に対する殺意や悪意を抱いたことに気づいたから、 イエス様はその場から立ち去ったのかもしれません。 イエス様が出ていくのを見た多くの人々は、 そのようなことなど気付かず、イエス様の後をついて行ったそうです。 いつものように、イエス様は彼らの病を癒しましたが、 このとき不思議なことに、「自分のことを言いふらさないように」と、 人々を戒めるイエス様の姿が描かれています。 噂が独り歩きして、自分についての誤った理解が 人々の間で広まらないようにしたかったのでしょう。 実際、この頃には既に「あの男は悪霊の頭だ」とか、 「この人こそ、私たちユダヤの民を導いて、ユダヤの国を、 ローマ帝国の支配から解放してくださるに違いない」 などといった声が聞こえていたのですから。 イエス様が「自分のことを言いふらさないように」と人々を戒めた、 この出来事の意味を説明するため、マタイはイザヤ書の言葉を引用しました。 マタイはこれまで、旧約聖書に記されている言葉を引用して、 イエス様によってその言葉が実現したと、何度も書いています。 でも、今回の引用は、これまでと違って長めの引用です。 もしイエス様の今回の行動だけを取り上げて、 この出来事は、預言者イザヤを通して語られた言葉の成就である と伝えようとするならば、もっと短い引用で済んだはずです。 「彼は争わず、叫ばず、 その声を聞く者は大通りにはいない」(マタイ12:19) とだけ引用すれば、会堂を黙って去って行き、 自分のことを言いふらさないように人々を戒めた、 イエス様の姿がイザヤ書の言葉と重なることがよくわかると思います。 でも、なぜマタイはそのようにはせずに、もっと長い引用をしたのでしょうか。 彼はきっと、イザヤ書からの長い引用を通して、 この