しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2017年8月20日日曜日

説教#180:「キリストのしるし」

「キリストのしるし」
聖書 マタイによる福音書 12:38-45、ヨナ書 2:1-11
2017年 8月 20日 礼拝、小岩教会

【しるしを求める人々】
しばしば勘違いされることがあるのですが、 
イエス・キリストの「キリスト」とは、 
イエス様の苗字のことではありません。 
つまり、キリスト家のイエスという名前の男がいた、
というわけではないのです。 
イエス様が生きた時代の人々は、
多くの場合、生まれ育った地域や、
家族の名前と結びつけられて名前を呼ばれていました。 
ですから、イエス様は「ナザレのイエス」や「ヨセフの子であるイエス」
といったように、人々から呼ばれていました。
それでは、家族の名前や民族の名前ではないならば、
「キリスト」とはどういう意味で用いられたのでしょうか。
キリストは、救い主メシアを意味する「称号」です。
ですから、イエス・キリストとは、 
「イエスは救い主キリストである」という、信仰を告白する言葉です。 
でも、イエス様は、初めから救い主として、キリストとして、 
ユダヤの人々の間で受け入れられたわけではありません。 
ただ、イエス様の言葉を聞き、 
病の癒しや悪霊を追い払うといった、 
イエス様のなさる様々な行いを見たとき、 
人々は口々に噂するようになりました。
「もしかしたら、この人がキリストかもしれない」と。
この噂はユダヤの人々の間で、 
徐々に期待となって現れてきました。 
でも、だからと言って、 
「このイエスという男がキリストである」という確証など、 
誰も持つことは出来ませんでした。 
だからこそ、本人に聞いて、はっきりさせたかったのでしょう。 
「先生、しるしを見せてください」(マタイ12:38)と、
律法学者とファリサイ派の人々のうちの何人かが、
イエス様にお願いしたと、マタイは報告しています。
「もしも、あなたがキリストであるならば、 
そのしるしを見せることは可能でしょう? 
だから、あなたがキリストであるしるしを私たちに見せてください」。 
確かに、このようなお願いをしたくなるのはよくわかります。 
信じるために、確かなしるし、確かな証拠がほしいのです。 
そのようなしるしがなければ、信じられない。 
まるで、私たちの心の思いを代弁しているかのようです。 

2017年8月13日日曜日

説教#179:「言葉が結ぶ実」

「言葉が結ぶ実」
聖書 マタイによる福音書 12:33-37、イザヤ書 55:6-11
2017年 8月 13日 礼拝、小岩教会

【言葉を語ることは、生き方の問題】
人間にとって、言葉はとても大切なものです。
私たちは日頃、言葉で挨拶を交わし合うことで、お互いに繋がりを持ちます。
言葉を用いて、自分の気持ちや意思を伝え、
質問を投げかけて目の前の人のことを、もっとよく知ろうと努めます。
もちろん、口から語られるものだけが言葉ではありません。
話すときの身振り手振りだって、全身を使って発している言葉です。
目の前の人の表情や声の調子によって、言葉が伝わる場合だってあります。
その意味で、この口で語るものだけが言葉なのではなく、
私たちの全存在、全生涯が言葉となり、人に伝わっていくのです。
そうです、まさに、言葉を語るということは「生き方の問題」なのです。
そう考えると、私たちは言葉に対してますます難しさを感じます。
自分が日頃語る言葉や日々の行い、これまでの人生を振り返るならば、
誰の目から見ても誤りや失敗などは、全くないなどということはあり得ません。
共に生きる人たちとの間に、言葉によって、良い繋がりを築くどころか、
かえって争いを生み出してしまいます。
愛や憐れみに満ちた言葉よりも、怒りや嫉妬に満ちた言葉を吐き出して、
簡単に目の前の人を傷つけてしまいます。
たとえ、誰も傷つけないように口を閉じて黙ったとしても、
表情や行動によって誤解を生み出してしまうことだってあります。
その上、口で語ることと実際の行動とが
完全に一致していないことさえあるのが、私たち人間というものです。
ですから、いつも心から沸き起こる言葉をどのように用いるのかは、
私たちにとって大きな課題なのです。

2017年8月6日日曜日

説教#178:「神の国はあなたたちのところに来ている」

「神の国はあなたたちのところに来ている」
聖書 マタイによる福音書 12:22-32、イザヤ書 49:24-25
2017年 8月 6日 礼拝、小岩教会 

【主イエスを歓迎する人々】 
イエス様の時代の人々にとって、「悪霊の支配」は恐るべきものでした。 
悪霊は人々に病をもたらし、口をきけなくさせ、 
耳から音を奪い、目から光を奪いました。 
また、悪霊は人を迷わせ、堕落させる存在として考えられていました。 
そんな悪霊に憑かれてしまった人々は、
墓場に住むなどして、社会から遠ざかって暮らすことを、 
周りから強いられることさえありました。 
このような形で悪霊に苦しんでいる人々と出会う度に、
イエス様は関わりを持ち、悪霊を追い払われました。 
そうすることによって、悪霊の支配の下で生きる人々を、 
その苦しみから解放し、本来あるべき生活へと戻されたのです。 
このような働きをするイエス様のもとに、 
きょうもまた、悪霊に憑かれた人が、連れられて来たそうです。 
目が見えず、口がきけなくなっていたこの人から、 
悪霊を追い払い、イエス様はその人を癒しました。 
このとき、イエス様の行った業を見た多くの人々は驚き、 
「この人はダビデの子ではないだろうか」(マタイ12:23)と 
声を上げたと、マタイは記しています。 
それは、イエス様を心から歓迎する声でした。 
「ダビデの子」とは、救い主メシアを現す称号です。 
イスラエルを再建して、ダビデの時代のような栄光をこの国に取り戻し、 
世界に平和をもたらす存在として、 
「ダビデの子」と呼ばれる救い主の登場を 
ユダヤの人々は待ち続けていました。 
多くの人々の病を癒し、 
驚くべき権威に満ちた教えを語り、 
時には嵐を静め、 
そして今、自分たちの目の前で、悪霊を追い払った、 
そんなイエス様の姿を見て、その場にいた人々は思ったのです。 
「この人こそが、私たちが待ち望み続けた 
ダビデの子なのではないだうか」と。