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説教#184:「それでも種を蒔こう」

「それでも種を蒔こう」 聖書 マタイによる福音書 13:18-23、ホセア書 10:12 2017年 9月 17日 礼拝、小岩教会 【弟子たちはどのように受け止めただろうか?】 種を蒔く人のたとえ話をイエス様が解説するのを聞いたとき、 弟子たちはこの話を一体どのように受け止めたのでしょうか。 ある人はこう思ったことでしょう。 「自分は神の言葉を聞いても、なかなか理解することが出来ないし、 まるでこの話の道端のように、 頑なな心でしか神の言葉を聞けていません」と。 またある人は、石だらけの土地に自分を重ねて聞きます。 「確かに、聖書が開かれて、神の言葉が自分のもとに届くとき、 私はいつも嬉しくなります。 でも、実際は、神の言葉を蔑ろにした日々を送ってばかり。 神の言葉が、自分の行動にも、 生活にも、また人格にも、全く根付きません。 形だけの信仰をもって生きているこの私こそ、石だらけの土地です」と。 中には、茨の繁る土地に自分を重ねる人もいました。 「信仰をもって生きるのはとても大変なんです。 現実には、私の心を悩ませることが多すぎます。 人間関係もそうですし、お金の使い方にだって悩みます。 悩みすぎて、息苦しい思いをしながら毎日過ごしています」と。 でも、ある人は言います。 「そうです、このたとえで描かれている良い土地とは、 まさに私のことです! 神が語ってくださる言葉を喜んで聞いて、 忠実にそれを行っているから、私の毎日は充実しています。 神の言葉は、私の心で、いや人生で、何十倍にも豊かになりました」と。 このように、種蒔きのたとえ話を聞いた人たちが、 「自分はどの土地かな?」と考えながら聞くことが出来るように、 イエス様は4種類の土地に注目して、たとえを解説したように思えます。 しかし、イエス様は、「自分は4種類の土地の中のどれなのか」と、 弟子たちに考えさせたいのではないと思います。 というのも、人間という存在はもっと複雑な存在だからです。 私たち人間が、4種類の存在に分けられるわけがありません。 寧ろ、ここで語られていることのすべてが、 一人の人の中で常に起こり得ることと捉える方が良いと思います。 つまり、足

説教#183:「あなた方の目と耳は幸いだ」

「あなた方の目と耳は幸いだ」  マタイによる福音書 13:10-17、イザヤ書 6:9-13 2017年 9月 10日 礼拝、小岩教会  【なぜたとえを用いてイエスは話すのか?】  種まく人のたとえをイエス様が語るの聞いたとき、  弟子たちの心に疑問が湧いてきました。  「このたとえを通して、  イエス様が伝えようとしていることは、  弟子である自分たちには何となくわかる。  でも、人によっては全くもって意味不明!  チンプンカンプンに違いない。  たとえなど用いないで、もっとわかりやすく語れば良いのに、  何でイエス様はこのような話し方をするのだろうか」と。  そのため、彼らはたとえを用いて語る理由を、イエス様に尋ねました。  弟子たちの質問に対して、イエス様はこのように答えます。  あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、  あの人たちには許されていないからである。(マタイ13:11)  「天の国の秘密」とは、一体何を意味しているのでしょうか。  「秘密」と訳されている言葉は、  人間の理性では決して知ることの出来ない、  神の思いや神の計画を意味する言葉です。  つまり、「天の国」とは、神の側が明らかにしなければ、  私たち人間は知ることも出来ない。  いや、見ることも、聞くことも出来ないものなのです。  しかし、天の国の秘密は、 イエス様を通してすべての人に明らかにされました。  「天の国は近づいた」と語り、人々を教え、  病人を癒し、悪霊を追い払い、罪の赦しを与える  イエス様を通して、天の国は明らかにされました。  でも、イエス様の言葉を聞き、イエス様の生き様を見たすべての人が、  イエス様を心から受け入れ、 天の国の到来を信じたわけではありませんでした。  中にはイエス様と距離を置く人、  イエス様に強く反発し、イエス様を殺そうとする人までいました。  ですから、イエス様は、天の国について語るとき、  たとえを用いて語ることを選ばれたのです。  自分の言葉を聞いて強く反発してしまう人たちが、  何とか耳を傾け、天の国について知ることが出来るようにと願って、  イエス様はたとえ

説教#182:「種を蒔く人を見よ」

「種を蒔く人を見よ」 聖書 マタイによる福音書 13:1-9、エゼキエル書 36:9-11 2017年 9月 3日 礼拝、小岩教会  【主イエスがたとえを用いて語った理由】 ガリラヤ湖に浮かぶ舟に腰を掛け、 きょうも、イエス様は人々に語り始めました。 イエス様の語る言葉を、岸辺に立って真剣に聞いていた、 多くの人たちにとって、この「種まき」の話は、 イエス様が語られたたとえ話の中でも、 特に親しみを覚える話だと思います。 というのも、種が蒔かれて、その種が成長するのを見守り、  収穫に一喜一憂するのは、  この当時の人々にとって日常的なことだったからです。  このように、イエス様は、人々に親しみ深い形で、  神の国についてのたとえを語りました。 でも、イエス様の話は、とてもわかりやすく感じる一方で、  イエス様がこの話を通して何を伝えようとしているのかは、  すべての人に明らかだったわけではありません。 ある人は、その意味を理解し、うなずきながら聞いていました。  またある人は、「この人は何故このような話をするのだろうか」と、  首をかしげながら、悩んだことでしょう。 イエス様がたとえを用いて語るときは、 多くの場合、「天の国」について、人々に知らせるために語っています。 でも、そもそもなぜイエス様はたとえを用いて、 語る必要があったのでしょうか。 それは、「天の国」とは、 人々がこれまで触れたことがない、未知のものだったからです。 もしも私たちが未知のものについて知ろうとするとき、  既に知っていることを土台にして理解する必要があります。 ですから、未だ完全にその全貌を知ることが出来ないけれど、 確かに私たちには「天の国」が与えられている、 ということを教えるために、イエス様はたとえを用いられたのです。 たとえ話を聞いて、その光景を想像することを通して、 天の国について創造的に、自由に思い巡らす。 これこそ、イエス様が、 たとえ話を用いて天の国について語ったことの狙いです。