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1月, 2018の投稿を表示しています

説教#202:「それでも聖なる民とされた」

「それでも聖なる民とされた」 聖書 出エジプト記 19:3-6、 マタイによる福音書 15:1-20 2018年 1月 28日 礼拝、小岩教会 イエスさまがさまざまな奇跡を行ったことや、 権威をもって律法を人々に語り教えたこと、 そして、イエスさまに従ってついて行く人々がたくさんいたということは、 ユダヤの人々の間で噂になっていました。 その噂を聞きつけて、エルサレムからファリサイ派の人々と 律法学者たちがやって来たと、マタイは報告しています。 エルサレムといえば、神殿が建てられている、ユダヤの国の中心地です。 そのような場所から、わざわざイエスさまのもとに、 宗教的指導者であるファリサイ派の人々や律法学者たちが来たのです。 おそらく、イエスさまが噂通りの人物かを確認しに来たのでしょう。 イエスという男はどのような教えを語り、 彼に従う人々はどのような人たちなのかを、 実際にその目で見て確認するために、 ファリサイ派の人たちや律法学者たちは、 エルサレムからイエスさまのもとにやって来たのです。 実際にイエスさまと出会い、イエスさまの言葉を聞き、 イエスさまの行いを見た彼らでしたが、 イエスさまのそばにいる弟子たちを見たとき、 ひとつ気になることが心に浮かんできました。 そのため、彼らはイエスさまにこのような質問をしたのです。 なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。 彼らは食事の前に手を洗いません。(マタイ15:2)

説教#201:「信仰者の船旅」

「信仰者の船旅」 聖書 マタイによる福音書 14:22-36、創世記 7:10-16 2018年 1月 21日 礼拝、小岩教会 それは、夜明け前、午前3時から6時頃の時間帯のことでした。 ガリラヤ湖に浮かぶ舟に乗った弟子たちは、思い悩んでいました。 イエスさまに命じられて、向こう岸を目指して舟を漕ぎ出したものの、 逆風のため、舟は思うように前へ進みません。 どれだけ進んだのかも、あとどれだけ舟を漕げば良いのかも、 夜の暗闇のせいで全くわかりません。 弟子たちは疲れ果てていました。 その上、彼らが乗る舟に向かってくる風は、波を引き起こし、 何度も何度も、水が舟に覆いかぶってきました。 ガリラヤ湖のような湖を渡るのに、屋根のついた立派な舟は用いません。 そのため、身体は水で濡れ、体温を奪われ、寒さに震えながら、 弟子たちは残る力を振り絞って、舟を漕ぎ続けていました。 この当時の舟に、エンジンのような動力などありませんから、 夜空の星が示す正しい方角だけを頼りにして、 間違った方向へ行かないように、 彼らはお互いに協力し合って、必死に舟を漕ぎ続けていました。 そんな時、ふと弟子たちの頭をよぎることがありました。 「イエスさまは、なぜ一緒にいてくれないのだろうか。 なぜこんなに風が吹き荒れている中、 湖を横切って、向こう岸へ行くようにと言われたのだろうか」と。

説教#200:「あなた方が与えなさい」

「あなた方が与えなさい」 マタイによる福音書 14:13-21、列王記 下 4:42-44 2018年 1月 14日 礼拝、小岩教会 人里離れた場所へ行ったイエスさまを追いかけて、 多くの人々がイエスさまのもとに集まりました。 そこに集ったのは、成人した男性だけで およそ5,000人もいたと、マタイは報告しています。 女性と子どもたちも含めれば、 そこには少なくとも2万人はいたことでしょう。 イエスさまはいつものように、集まってきた人々の病を癒やし、 彼らに教えを語られました。 あっという間に、時は過ぎ去り、 いつの間にか日が暮れる頃になってしまいました。 でも、人々はなかなか帰ろうとする気配がありません。 弟子たちとしては、そろそろ夕飯を食べて、ゆっくり休みたいところです。 ですから、彼らはイエスさまに提案しました。 「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。 群衆を解散させてください。 そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」 (マタイ14:15) 弟子たちがこのような判断をするのは当然のことです。 2万人分の食料を用意するなんてこと、急に出来るわけがありませんし、 何よりも、それだけの食料を 手に入れるためのお金だってあるわけありません。 弟子たちは現実に物事を考えて、イエスさまに提案をしました。 でも、イエスさまからは思いがけない答えが返ってきました。 「行かせることはない。 あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」(マタイ14:16)

説教#199:「拒絶されても、あなたを愛する神」

「拒絶されても、あなたを愛する神」 聖書 マタイによる福音書 14:1-12、エレミヤ書 36:21-29 2018年 1月 7日 礼拝、小岩教会 バプテスマのヨハネの死は、 とてもショッキングな出来事のひとつです。 ヘロディアの娘が、ヘロデの誕生日のお祝いの席で踊りを披露した後、 ヘロデから「願うものは何でもやろう」と言われた彼女は、 母親にそそのかされ、ヨハネの首を求めます。 そして、彼女たちの願いどおりに、ヨハネは首を切られ、 その首が盆に載せて運ばれてきたというのです。 母親の命令とはいえ、恐らくまだ10代であろう少女が、 美しい踊りを終えた後に、首を求める。 もともとの言葉では、二人称命令形で「あなたは私に与えよ」と、 とてもきつい表現で記されています。 そのため、この親子は、冷たく、いやらしい人間として、 描かれていることがよくわかります。 そして、首を受け取った少女の反応も描かれることなく、 母親のもとにヨハネの首は届き、 この狂気じみた報告は幕を閉じます。 私たちはこの出来事を、 一体どのようにして受け取れば良いのでしょうか。