しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2011年4月1日金曜日

最近思うこと#2:「待つこと」

最近、「待つ」という事を思うときに、常に心に留めることがある。それは、「この地上で待つことが求められているひとつひとつの事柄は、キリストを待ち望むための訓練」だということ。

僕らは日々、様々なものを待っている。
電車、人(遅刻はしない側でありたい)、宅配便、手紙(メール)の返事、給料日などなど……
そして、それぞれの人生のステージによって、待つものが用意されている。
僕のこれまでの経験から言うならば、試験の結果がすぐに思いつく。
そして、きっとこれからは帰郷(家族との再会)、結婚、子ども、成長、老い、死を待つのだろう。
(ヨセフ、ヤコブ、アブラハムを思い起こしながら書いてみたり)
共通しているのは、自分の思い通りにいかないという事だろうか?

僕ら人間には、このように色んなものを生涯待ち望む。
それは時に試練であり、苦しみだ。
忍耐が伴う。
シンドイ、というのが本音だろう。
決断をするときは興奮と感激があるし、
目的を達成したときには栄光と満足がある。
しかし、待つことが強いられているとき、中途半端に感じる。
だから、それはシンドイことだと思う。
でも、「この地上で待つことを求められている一つ一つの事柄を待つことが出来なくて、どうしてキリストを待ち望むことが出来るのか?」と思わされる。
そして、ローマの信徒への手紙の言葉を思い起こしたい。
……わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。(ローマ5:3-5)
昨日から「健全な信仰をどう育てるか」(丸屋真也、いのちのことば社)という本を読んでいます。そこに書かれていた言葉に「なるほど」と思わされたので、紹介します。
子どもの特徴は、欲しいと思うものはすぐに手に入れたがるということです。待つことができないのです。つまり、未熟さの特徴は忍耐がないことです。子どもは欲しい物が与えられないと、ところかまわず泣き叫びます。
きっと、忍耐が求められているときって、未熟な霊的子どもから、成熟した霊的大人へと成長するためのものなのだと思います。将来の希望を携え、その時々に求められる「待つ」事柄に忍耐していきたい。

でも、僕らは時に待てず、失敗する。
しかし、それも成長の過程。
その失敗も訓練なのだ。
そうやって、少しずつ少しずつ、待つことを教えられていく。
希望の光を灯し、忍耐することが出来るようになってくる。
そして、祈る。「マラナタ!(主よ、来てください!)」と。
そうやって、天の故郷にあこがれて生きるんだ。


*「最近思うことシリーズ」は、構成が雑な文章になること必死です(笑)。