教会月報『モレノ』( Mo nthly Re port of the church of the N azarene in O yama)に掲載した原稿をアップします。 『 あなたのパンを水の上に投げよ 』(教会月報「モレノ」2011年7月号掲載) 【あなたのパンを水の上に投げよ】 あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。(コヘレト11:1) 僕は毎朝、ディボーションの時として聖書通読をすると共に、最近はC.H.スポルジョンの『主の約束は朝ごとに』を読んでいます。この聖書の言葉は、6/1(水)に読んだものです。ちなみに、新改訳では「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出そう。」と書かれています。 「パンを水の上に投げる」なんてとてもナンセンスなことだと思うかもしれません。でも、実際、僕らは日々、パンを水の上に投げているかのような経験をします。そのようなことがとても多くあります。 しかし、この箇所は、主にあって僕らの日々の労は空しくなるということはないことを教えてくれます。「月日がたってから」、「ずっと後の日になって」、僕らはそのパンを「見出す」という神様の約束が聖書に書かれているのです。 【6年という月日――そこで見出したもの】 5月末に、2人の男子高校生と一緒に夕食を食べに行きました。実はこの2人、僕が高2のとき、奥多摩での小学生キャンプで初めて受け持った子たちなのです。彼らはもう高校3年生。出会った頃は小学6年生だった彼らも、6年という月日が流れた今、当時の僕よりも年上になっていました。 僕が高校生キャンプの奉仕が日程の都合上出来なかったため、彼らと会うのは2年振りでした。そして、キャンプ場以外で、つまりプライベートで彼ら会うのは初めてでした。これは、約6年キャンプ奉仕をしていて初めての経験だったので、とても感慨深いものでした。キャンプ場での「キャンパー」と「スタッフ」という関係で終わることなく、僕は彼らと「友」として会うことを許されたのです。 6年前に投げたキャンプ奉仕というパン。それはすぐに結果を見出すことはなかなかできないし、あったとしてもとても気付きにくいものです。小さな拙い奉仕であったにも関わらず、僕はそ