神学生な日々#2:「ギリシア語はじめました」 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ - 5月 16, 2011 11連休が終わり、先週から授業が本格的になってきました。今年はM先生が以前から言っていた通り、ギリシア語と教会史が大変そうです。なので、そこに力を注いでいく一年になりそうです。ギリシア語を挫折せずに、この1年で習得できるようにお祈りいただけたら幸いです。 *聖書をギリシャ語で読める日が来るのが楽しみです^^ リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
説教#215:「希望に結びつく悲しみ」 - 5月 06, 2018 「希望に結びつく悲しみ」 聖書 エゼキエル書 37:1-14、マタイによる福音書 17:22-23 2018年 5月 6日 礼拝、小岩教会 私たちは人生のさまざまな場面で悲しみを経験します。 お気に入りの傘を電車で忘れてしまった時。 失敗をくり返し、自分の力の無さを実感する時。 言葉や態度によって、周囲の人々を傷つけてしまい、 自分自身の愛の無さ、配慮の無さを知り、自分自身に失望する時。 周りの誰からも理解を得られず、孤独を感じる時。 大切な人から裏切られた時。 そして、愛する人との別れを経験した時。 悲しみの度合いや、悲しむ理由は、実に様々ですが、 私たちは、何度も何度も悲しみに直面させられます。 このように私たちが経験する悲しみを 私たちは一体どのように受け止めれば良いのでしょうか? 使徒パウロは、コリントの教会に宛てて書いた手紙の中で、 その当時、コリントの教会の人々が抱いていた悲しみについて、 このように書きました。 神の御心に適った悲しみは、 取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、 世の悲しみは死をもたらします。(Ⅱコリント7:10) 私たちが抱く悲しみには、 ふたつの種類の悲しみがあるとパウロは言います。 それは、「神の御心に適った悲しみ」と「世の悲しみ」である、と。 そして、神のみ心にかなった悲しみは、 救いに通じる悔い改めを生じさせ、 世の悲しみは、私たちに死をもたらすと、 パウロは結論づけています。 Read more »
説教#213:「その時、主と同じ姿に変えられる」 - 4月 22, 2018 「その時、主と同じ姿に変えられる」 聖書 イザヤ書 53:1-5、マタイによる福音書 17:1-13、詩121 2018年 4月 22日 礼拝、小岩教会 ペトロ、ヤコブ、その兄弟のヨハネ。 この3人の弟子たちは、とても不思議な経験をしました。 イエスさまに連れられて、高い山へ登ると、 イエスさまの姿が彼らの目の前で変わり、 「顔は太陽のように輝き、 服は光のように白くなった」のです(マタイ17:2)。 そして、気がつくと、イエスさまと一緒に、 モーセとエリヤがいて、彼らが語り合っているのです。 ペトロにとって、この時の光り輝くイエスさまは、 まさに天に属する存在のように思えました。 ユダヤ人たちの伝承によれば、 イエスさまと一緒に語り合う、モーセやエリヤという、 あの偉大な信仰者たちもまた、天に属する存在です。 そのため、ペトロは感動のあまり、 「わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです」と語り、 イエスさまにこのように提案します。 お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。 一つはあなたのため、一つはモーセのため、 もう一つはエリヤのためです。(マタイ17:4) ペトロのこの提案は、イエスさまにとって、 ふたつの意味で受け入れることが出来ないものでした。 ひとつは、イエスさまが山に登る前に、弟子たちに、 ご自分の死について語られたことと関係があります。 ペトロは、相変わらず、イエスさまが語った言葉を 受け入れることが出来ていませんでした。 イエスさまが苦しみ、殺されることになることなど、 簡単に受け止めることは出来ません。 苦しみを受け、人々から蔑まれ、 死ぬことになるイエスさまの未来よりも、 ペトロは、イエスさまが栄光のうちに輝いている、 今、この時の姿をずっと見ていたかったのです。 だから、少しでも、イエスさまが栄光に輝く時が続くように、 「仮小屋」を建てる提案をペトロはしたのです。 Read more »
説教#228:「主イエスを通して、天を見上げるならば」 - 8月 05, 2018 「主イエスを通して、天を見上げるならば」 聖書 出エジプト記 17:1-7、マタイによる福音書 21:23-27 2018年 8月 5日 礼拝、小岩教会 イエスさまの教えを聞き、その立ち振る舞いを見て、 イエスさまに対して疑問や敵対心を抱く人々がいました。 きょうの物語に登場する、 「祭司長」と「長老」という、このふたつのグループこそ、 イエスさまに対して敵意を持ち続けた人たちです。 彼らは、ユダヤの議会を構成する人々でした。 つまり、ユダヤの国において大きな権限を持つ、 ふたつのグループに属する人々が、 この時、エルサレム神殿の敷地内で、 人々に教えを語るイエスさまに近づいて来たのです。 彼らは、イエスさまにこのように尋ねました。 何の権威でこのようなことをしているのか。 だれがその権威を与えたのか。(マタイ21:23) 彼らは決して、純粋な気持ちから、 イエスさまにこのような質問をしたわけではありません。 この質問は、イエスさまが持つ権威に対する疑問や イエスさまに対する敵意から出てきたものでした。 そのため、この質問に答えることは、とても難しいことでした。 というのも、もしもイエスさまが問題と思えるような発言をするなら、 ユダヤ議会のメンバーである彼らが持つ権限によって、 彼らはイエスさまを裁くことだって出来たからです。 ところで、なぜ祭司長たちや長老たちは、 イエスさまの権威に疑問をもち、 イエスさまに対して敵意を抱いていたのでしょうか。 Read more »
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