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説教#245:「汚れを除く方が来る」

「汚れを除く方が来る」 聖書 マラキ書 3:1-4、フィリピの信徒への手紙 1:3-11 2018年 12月 9日 礼拝、小岩教会 神はかつて、預言者マラキを通して、イスラエルの民に語りかけました。 見よ、わたしは使者を送る。 彼はわが前に道を備える。 あなたたちが待望している主は 突如、その聖所に来られる。(マラキ 3:1) 待ち望んでいた者が来ると言うのですから、 喜ばしい知らせがこの預言者を通して語られているかのように思えます。 しかし、マラキによれば、どうやら神からの使者は、 人々が心から願った形で来るわけではないようです。 マラキは続けて、このように語っています。 だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。 彼の現れるとき、誰が耐えうるか。 彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。(マラキ 3:2) 神がイスラエルの民のもとに送る使者とは、精錬する者の火のようだ。 そして、洗う者の灰汁のようだと、マラキは告げます。 一体、この言葉にどのような意味が込められているのでしょうか? それは、当時のイスラエルの現実がよくわかる言葉でした。 精錬するための火が必要ということは、 金や銀に不要物が混じっているということですし、 灰汁が必要ということは、 衣服が汚れてしまっているということです。 つまり、この2つのイメージを用いて、 神はイスラエルの人々にこのように伝えているのです。 「金や銀に含まれている不純物が分かちがたいように、 あなた方が抱える罪や汚れは、あなた方の一部となってしまっている。 また、衣服の汚れが簡単に落ちないように、 あなた方の存在そのものに罪や汚れがしみついてしまっている」と。 そして、そればかりでなく、 精錬する者として、洗う者としてやってくる者を通して、 神は、イスラエルの民から 罪や汚れを取り除くと宣言しておられるのです。 しかし、その方法は決して、人々にとって喜ばしいものでも、 待ち望んでいたものでもありませんでした。 というのも、罪や汚れを取り除くための方法について、 苦しみや痛みが伴うことが想像できるイメージが ここで用いられているからです。 不純物を取り除き...

説教#244:「キリストに仕える生涯」

「キリストに仕える生涯」 聖書 エゼキエル書 34:11-24、マタイによる福音書 25:31-46 2018年 12月 2日 礼拝、小岩教会 きょうのイエスさまのたとえ話に登場する王さまは、 飢え渇く人、家がなく旅をする人、病に苦しむ人、 裸である人、牢獄につながれている人を 助けた人々に向かって、このように言いました。 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、 のどが渇いていたときに飲ませ、 旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、 牢にいたときに訪ねてくれた。(マタイ 25:35-36) このように言われた人たちが、キョトンとした顔で、 王さまを見つめている姿が想像できると思います。 そうです、だって、心当たりがないのですから。 自分たちが一体なぜ王さまから感謝されているのか、 さっぱりわかりません。 王さまの前に立つ人々は、 自分たちが王さまを助けたなどとは、当然、誰も思っていません。 自分たちが助けたのは、苦しんでいる自分自身の家族です。 悲しみ、嘆きのうちにある仲間たちです。 喉が渇き、お腹を空かせていた旅人たちです。 そういった人たちを助けたことは確かにありました。 でも、この王さまは優しく語りかけるのです。 「このような人々のためにあなたがしたことは、 このわたしにしたことだ。 助けを必要としていた最も小さい者たちに、あなたがしたことは、 わたしにしたことだ」と。 なぜ他の人を助けたことが、王さまを助けたことになるのか、 このたとえ話を読んでも、その理由は、正直わからないと思います。 でも、このたとえに登場する王さまが、 イエスさまご自身のことを指すとわかるならば、 私たちの目に光が与えられることでしょう。

説教#243:「王である神からの預かり物」

「王である神からの預かり物」 聖書 創世記 1:26-31、マタイによる福音書 25:14-30 2018年 11月 25日 礼拝、小岩教会 これまでイエスさまは、弟子たちや群衆に、 「世の終わりの日はいつ来るかわからない」ということを たとえを用いて伝えましたが、 きょうの福音書の物語においては、 終わりの日を待ち望む信仰者たちの生き方に イエスさまはスポットを当てています。 イエスさまが語ったたとえに登場するしもべたちは、 旅に出る主人からお金をあずかりました。 渡された金額について、「タラントン」という単位が用いられています。 5タラントン、3タラントン、1タラントンと、 しもべたちがそれぞれに受け取ったお金は、 一体、どの程度の金額だったのでしょうか。

説教#242:「天の国を生きる」

「天の国を生きる」 聖書 アモス書 5:18-24、マタイによる福音書 25:1-13 2018年 11月 18日 礼拝、小岩教会 イエスさまは、「天の国は近づいた」と語ることから、 宣教の働きを始めました。 そして、人々の病を癒し、悪霊を追い払い、 様々な奇跡を行うことによってイエスさまは、 神が救いの手を伸ばし、天の国が近づいているということを 多くの人々の前で明らかにされました。 ところで、イエスさまが伝えた「天の国」とは、 一体どのようなものなのでしょうか? きっと、多くの人は、ぼんやりとしたイメージを抱いて、 「天の国とは、死んだ後に行く世界のことだ」と考えているでしょう。 でも、そのようなイメージが先行してしまうとき、 聖書が語る「天の国」を誤って理解してしまう危険があります。 イエスさまは、天の国について語るとき、 たとえを用いて語ることを好みました。 ただ、たとえ話というものは決して、 天の国について、人々にわかりやすく語るために イエスさまが選んだ方法ではありません。 天の国は、神が私たちに恵みとして与えるものであって、 本来、私たちの現実にはないものです。 ですから、天の国は、たとえによってでしか、 表現できなかったのかもしれません。 それでは、イエスさまは、たとえによって、 天の国をどのように表現されたのでしょうか?

説教#241:「目を覚ましていなさい」

「目を覚ましていなさい」 聖書 イザヤ書 2:1-5、マタイによる福音書 24:36-51 2018年 11月 11日 礼拝、小岩教会 「この世界はいつか必ず終わりの日を迎える」という確信のもと、 イエスさまは、弟子たちにひとつひとつの言葉を語りかけました。 世の終わりの日が必ず訪れる。 つまり、どれほど私たちが永遠を願い求めたとしても、 すべての物事は必ず終わりの時を迎えるのです。 ただ、イエスさまの語る「終わり」とは、 完全な滅びのことではありません。 それは、神の手によって、新しく創り変えられるための終わりです。 新しい天と新しい地がやって来て、 命の終わりを迎えたすべての者が復活の生命を与えられ、 神と共に永遠に生きる。 ですから、イエスさまが語る「終わりの日」とは、 キリストを信じるすべての者の希望が実現する日といえます。 その希望の日が訪れる合図は、イエスさまによれば、 イエスさまご自身が再び私たちのもとに来ることです。 でも、ひとつ大きな問題が私たちの前に横たわっています。 それは、その終わりの日がいつやって来るのかを 誰も私たちに教えてくれないということです。

説教#240:「ラッパの音の合図を待つ」

「ラッパの音の合図を待つ」 聖書 イザヤ書 27:12-13、マタイによる福音書 24:29-35 2018年 11月 4日 礼拝、小岩教会 未来のことは、誰にもわかりません。 どれだけ性能の良いコンピューターを用いて、 AIの力を借りながら、予測を立てたとしても、 思い描いた通りの現実がやって来ることは絶対にありません。 たとえ明日の自分自身の予定を念入りに立てたとしても、 身体や心の状態、周りの人たちや天候など、 様々な要因が重なり合って、 計画通りにすべてを行うことは不可能です。 未来のことは誰にもわかりません。 未来とは、謎に包まれたものです。 このようなことは、きっと誰もが経験的に知っていることだと思います。 だからこそ、未来というものが完全に把握できないものだからこそ、 私たちは未来に何が起こるのか気になり、 とても心惹かれるのでしょう。 そんな謎に満ちた「未来」について、 すべての人のもとに必ず訪れる日がふたつあると、 聖書は私たちに告げています。

説教#239:「それから、終わりが来る」

「それから、終わりが来る」 聖書 ダニエル書 12:1-13、マタイによる福音書 24:3-28 2018年 10月 28日 礼拝、小岩教会 教会は、およそ二千年もの間、 イエス・キリストが再びこの地上に来る日を 「主の日」や「世の終わりの日」と呼んで待ち望んでいます。 でも、さきほど朗読されたイエスさまの言葉を聞くと、 この「終わりの日」というものが、 すべての人が待ち望むべき、希望に輝く日とは、 あまり感じられないように思えるかもしれません。 イエスさまの弟子たちが、 世の終わりが訪れるとき何が起こるのかと、イエスさまに尋ねたとき、 イエスさまは終わりの日のしるしとして、 様々な出来事が起こると彼らに伝えました。