しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2017年11月19日日曜日

説教#192:「主の日は、すべての国に近づいている」

「主の日は、すべての国に近づいている」
聖書 オバデヤ書 1-15、ヨハネの黙示録 21:9-27 
2017年 11月 19日 礼拝、小岩教会 

【エドムへの裁きの宣告】 
オバデヤ書という、このとても小さな預言書は、 
エドムに対する神の裁きが語られています。 
「エドム」と聞いても、どのような人たちのことなのか、 
さっぱりわからない、という感想を抱く方の方が多いと思います。 
でも、このように言うと、ピンとくる方も出てくるかもしれません。 
イスラエルの祖先の一人であるヤコブの双子のお兄さん、 
エサウの子孫がエドムと呼ばれた人たちです。 
つまり、イスラエルの人々にとっては、 
遠い親戚のような民族が、このエドムと呼ばれる人たちでした。 
そんなエドムに対して、神は、預言者オバデヤを通して、 
「お前は、大いに侮られる」と裁きの言葉を語られました。 
オバデヤを通して語られたエドムへの裁きは、 
とても厳しい内容のものでした。 
神は、エドムに向かってこう言われます。 
「盗人や侵略者がやって来て、 
お前たちからたくさんのものを奪い尽くす。 
お前たちの宝は奪い尽くされる。 
同盟関係にある仲間の国に裏切られ、 
お前たちは仲間に欺かれる。 
そして、お前たちは敵の手に陥り、 
殺戮にあうことになる」と(オバデヤ 5-9参照)。 

2017年11月12日日曜日

説教#191:「主イエスにつまずく者、神の憐れみを受けて立ち上がる者」

「主イエスにつまずく者、神の憐れみを受けて立ち上がる者」 
聖書 マタイによる福音書 13:53-58、アモス書 8:9-14 
2017年 11月 12日 礼拝、小岩教会 

【主イエスにつまずいた故郷の人々】 
あるとき、イエスさまは、 
ご自分の故郷であるナザレに戻って来られたそうです。 
ガリラヤ地方の他の町で行っていたように、 
イエスさまは、故郷のナザレにおいても、 
シナゴーグと呼ばれる、ユダヤ人たちが神を礼拝する会堂へ行き、 
神の言葉を説き明かし、人々に教えを語ったそうです。 
このときにイエスさまが置かれた環境は、 
いつもと違っていました。 
故郷の会堂であったため、そこにいたのは、 
恐らく一緒にいたであろう弟子たちを除けば、 
幼い頃からイエスさまを知っている人たちばかりです。 
彼らは、子どもの頃のイエスさまをよく知っていました。 
他の子どもたちと何の変わりもなく、 
無邪気に遊んでいた姿を見ていました。 
会堂で聖書を学んでいる姿もよく見かけましたし、 
毎週、安息日が来るごとに、 
一緒に神を礼拝したのも覚えています。 
父親のヨセフが大工であったのも知っていましたし、 
母親のマリアも、イエスさまのきょうだいたちも、 
ナザレの人々にとっては顔なじみでした。 
そのため、イエスさまの故郷、ナザレの人々にとって、 
イエスさまは「普通の人」と受け止められていたのです。 
ですから、会堂で教え始めたイエスさまの言葉を聞いて、 
人々は驚きました。 
「え?アイツはあのイエスだろ? 
聖書について、高い専門性のある教育を受けたわけでもないのに、 
大工の息子であるアイツが、 
一体、何でこのような教えを語れるんだ? 
このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう?」などと、 
人々は口々に語り合っていました。
ナザレの人々は自分たちが良く知っている、 
大工の息子であるイエスさまが語る教えの言葉を 
どうしても受け入れられなかったのです。 
そうです、イエスさまの家族や生い立ち、少年時代について 
どれほど知っていたとしても、 
過去にたくさんの時間を共有していたとしても、 
イエスさまを受け入れるのには何の役にも立たなかったのです。 
むしろ、イエスさまの言葉を聞くことの妨げとなってしまったのです。 

2017年11月5日日曜日

説教#190:「天の国についての学者であれ」

「天の国についての学者であれ」
聖書 マタイによる福音書 13:51-52、エゼキエル書 47:1-12
2017年 11月 5日 礼拝、小岩教会

【あなた方もまた「天の国の学者」】
これまで天の国についてのたとえ話を話し続けたイエスさまは、
この一連のたとえ話を終えようとして、弟子たちに尋ねました。
「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」(マタイ13:51)と。
イエスさまの質問に「分かりました」と答える弟子たちに、
イエスさまは最後にもうひとつ、たとえ話を語られました。

天の国のことを学んだ学者は皆、
自分の倉から新しいものと古いものを取り出す
一家の主人に似ている。(マタイ13:52)

イエスさまがこれまで語ってきた、
天の国についてのたとえ話を理解出来たという弟子たちに、
イエスさまは「天の国のことを学んだ学者」の話をしています。
イエスさまは弟子たちにこう言っているのです。
「私が語る天の国のたとえを理解したあなたたちは、
天の国についての学者なんだ」と。
でも、ちょっと待ってください。
イエスさまの弟子たちが学者であるはずはありません。
イエスさまの弟子たちは、ふつうの人ばかりでした。
イエスさまの弟子としてよく知られていた、
ペトロやその兄弟アンデレ、そしてヤコブとヨハネは、
漁師として働いていた、あまり教養のない人たちでした。
また、イエスさまの弟子たちの中には、
徴税人として働いていた人もいました。
お金のことには詳しいかったかもしれませんが、
彼らは当然、学者と呼ばれるほどの人ではありません。
しかし、それにも関わらず、
イエスさまは、天の国のたとえを聞いて、
それを理解した弟子たちのことを「学者」と呼びました。
不思議なことに、天の国についてのたとえは、
教養があるから理解できるわけではありませんでした。
神がその意味を明らかにするときにのみ、
すべての人は、天の国のたとえを理解することができます。
そのため、天の国についての学者となるためには、
私たち自身の力は必要ありません。
ただ、神が明らかにした時にのみ、
私たちは、天の国についてのたとえの意味を理解することが出来るのです。
その意味で、イエスさまと直接会い、
イエスさまから話を聞いていた人たちだけが、
天の国についての学者なのではありません。
イエスさまは、天の国についてのたとえ話を聞き、
その意味を知った人々を皆、天の国についての学者と呼んでいます。
つまり、きょう、この聖書から語れる言葉を通して、
イエスさまのたとえ話を聞くあなた方もまた、
天の国の学者として生きるように招かれているのです。

2017年10月29日日曜日

説教#189:「教会は改革され、改革し続ける」

「教会は改革され、改革し続ける」
聖書 マタイによる福音書 13:44-50、申命記 6:4-5
2017年 10月 29日 礼拝、小岩教会

【宝や真珠よりも、遥かにまさるもの】
イエスさまは、たとえ話を語るとき、
「天の国は次のようにたとえられる」と語り始めることが多かったようです。
「たとえられる」と訳されている言葉は、
もともとの言葉では、「似ている」という意味の単語が用いられています。
ただ、「天の国は、こういうものです」と言い切るのではなく、
「天の国は、こういうものに似ているんですよ」と語るのは、
ちょっと遠回りをしているように感じます。
でも、「天の国」というものは、
イエスさまを通して、初めて知らされたものです。
その意味で、天の国は、私たちにとって、全く未知のものといえます。
そのため、イエスさまは、私たちが何とかして、
天の国について知ることができるようにと願って、
「天の国は、こういうものに似ているんですよ」と、
天の国を様々なものにたとえて、説明されたのです。
イエスさまは、あるときは、「天の国はからし種のようだ」と語り、
天の国は、小さな種のようだけれど、
成長すると大きくなる様子を伝えました。
またあるときは、「パン種のようだ」と語り、
天の国は、人の目には隠されているけれども、
周囲に大きな影響を及ぼすものであると教えてくださいました。
では、きょうのイエスさまの言葉は、
どのような意味を込めて語られたのでしょうか。
イエスさまは3つのたとえを話しています。
ひとつ目は、「畑に隠された宝」に似ている。
ふたつ目は、「商人が高価な真珠を探す」ことに似ている。
そして最後に、漁師が網で魚を捕ることに似ていると言って、
イエスさまは天の国のたとえを語られました。
最初のたとえと、ふたつ目のたとえは、とても似ている話です。
というのは、畑に宝を見つけた人も、
高価な真珠を見つけた人も、
それを手に入れるために、財産のすべてを手放したからです。
ということは、イエスさまは、
私たちにも同じように生きるように求めているのでしょうか?
天の国を自分の手にするために、
この世の富をすべて捨て去って生きろとでも、言っているのでしょうか?
確かに、富に囚われた生き方は、私たちのあるべき姿ではありません。
「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)
とイエスさまが語られたように、それは神の願う生き方ではありません。
すべてのものは神によって与えられ、
神によって私たちは養われて生きているのですから、
私たちは、すべての造り主である神を信頼して生きるべきです。
でも、だからといって、
財産のすべてを何の考えもなしに手放すのは、無謀です。
ですから、イエスさまは、
あなたの持っている富を手放しなさいと勧めているのではありません。
イエスさまがこのたとえ話に込めた狙いは、
財産のすべてを投げ打ってまで手に入れたいと願う、
宝や真珠があるという事実に、私たちの目を向けるところにあると思います。
「この地上で手にする様々な宝よりも、遥かに勝るものがある」
ということをイエスさまは伝えているのです。
それは何だと思いますか?
そうです、これは「天の国のたとえ」です。
ですから、「私たちがこの地上で手にする様々な宝や富よりも、
遥かに勝って価値のあるものは、天の国なのだ」と
イエスさまは伝えようとしているのです。
それほどまでに価値のある「天の国」とは、「神の支配」のことです。
からし種やパン種の話で示されたように、
確かにそれは、目に見えないものかもしれません。
でも、確かに、すべてに勝る宝として「神の支配」はこの世界にあるのです。

2017年10月22日日曜日

説教#188:「その日、太陽のように輝く」

「その日、太陽のように輝く」
聖書  マタイによる福音書 13:36-43、ダニエル書 12:1-4 
2017年 10月 22日 礼拝、小岩教会

【私は「御国の子」?それとも、「悪い者の子」?】
私たちは、毎週日曜日、礼拝の中で「使徒信条」によって、
このような信仰の告白をしています。

かしこより来たりて
生ける者と死にたる者とを審きたまわん。(「使徒信条」より)

世の終わりの日、イエスさまが再び私たちのもとに来られるとき、
すべての人間が、神の裁きの対象として、
神の前に立たされることを、私たちは毎週のように確認しています。
でも、きょうのイエスさまの言葉を読むと、
それとは違う印象を覚えるのは、私だけでしょうか。
同じ畑の中に生えた麦と毒麦についてのたとえ話で登場する「毒麦」を、
イエスさまは「悪い者の子ら」と説明し、
毒麦、つまり「悪い者の子ら」は集められて、
燃え盛る炉の中に投げ込まれる、と言うのです。
まるで、神に背く悪者だけが、
神の裁きの対象であるかのような印象を覚えます。
そのような話として聞くならば、きょうのイエスさまの言葉は、
とても厳しい言葉として私たちの心に響くものとなるでしょう。
神と自分の関係の「つまずき」となるものを、
自分の心から取り去るためにはどうすれば良いだろうか。
「不法を行う者」の一人として、自分は神に数えられていないだろうか。
もしも、「悪い者の子ら」の一人に数えられ、
神によって裁かれることになったならば、
終わりの日、自分は、燃え盛る炉の中に投げ込まれてしまう。
そうならないために、良い行いを積み重ねなければいけない。
たくさん聖書を読んで、たくさん祈って、たくさん奉仕をして、
神に喜ばれなければいけない。
いや、それでもまだ足りないかもしれない。
というように、私たちが救われるためには、
結局のところ、私たちの側に努力が必要であるかのように思えてくるのです。
救いは神の恵みによってのみ与えられているのに、
どこかでそれだけでは安心できない自分がいるのです。

2017年10月15日日曜日

説教#187:「神の知恵は語られた」

「神の知恵は語られた」 
聖書 マタイによる福音書 13:34-35、コヘレトの言葉 1:1-11 
2017年 10月 15日 礼拝、小岩教会 

【主イエスはなぜたとえを用いたのか?】
あるときは、結婚式のお祝いの席の話。
あるときは、家を建てる人の話。
またあるときは、種を蒔いた人の話。
というように、イエスさまは、たくさんのたとえ話を人々に語りました。
イエスさまが語るたとえ話は、人々の生活に密着したテーマが選ばれ、
知恵に満ち、ユーモアに溢れ、いつも聞いていて楽しいものでした。
でも、イエスさまの話を聞いていた人々は、
「この人は、一体、何を伝えようとしているのだろう」
「この話にどのような意味が込められているのだろう」と、
いつも頭を悩ませていました。
というのも、イエスさまは、たとえを語られたとき、
多くの場合、その意味を明確には語らなかったからです。
イエスさまの言葉をどのように受け取り、理解するかは、
聴き手である私たち一人ひとりに委ねられていたのです。
時には、たとえをイエスさま自身が解説されたときもありましたが、
それでも、意味がさっぱりわからないことだってありました。
「もっとわかりやすく話してくれれば良いのに、
一体、なぜイエスさまはたとえを用いて語られたのだろう」と、
多くの人は疑問に思い、頭を抱えていたと思います。
「主イエスは、なぜたとえを用いて語り、
そのたとえには、一体どのような意味が込められているのだろうか」と、 
この福音書を記したマタイは、真剣に考えたのだと思います。
そしてあるとき、気づきが与えられ、マタイは確信を得たのだと思います。
「そうだ、イエスさまがたとえを用いて語られたこと。
そのことそのものに、大きな意味があるんだ。
キリストがたとえを用いて人々に語ることこそ、
旧約聖書に記されている預言の成就なのだ」と。 
もしかしたら、たくさんの人たちから聞いて、
これまで書き留められてきた、イエスさまのたとえ話を
整理して、この福音書に書き記す作業を行っているときに、
マタイはこのような気付きが与えられたのかもしれません。
感動したマタイは、イエスさまの言葉を記録する手を一度止めて、
旧約聖書に記されている言葉を引用して、
自分に与えられたその確信を、私たちに伝えることを選びました。
マタイは、私たちに語り掛けています。
「聞いてください。
イエスさまがたとえを用いて語られた意味が、ようやくわかりました。
ほら、『わたしは口を開いてたとえを用い、 
天地創造の時から隠されていたことを告げる』って言葉があるでしょ?
そうです、イエスさまがたとえ話を語ったことによって、
この預言が実現したんですよ!」(マタイ13:35参照)

2017年10月8日日曜日

説教#186:「誰のためのもの?」

「誰のためのもの?」
マタイによる福音書 13:31-33、エレミヤ書 9:22-23
2017年 10月 8日 礼拝、小岩教会

【主イエスが語った「天の国」とは?】
このたとえ話しを通して、
イエスさまは一体、何を語りたかったのでしょうか。
イエスさまがここで語っている「天の国」が、
私たちが将来迎え入れられると約束された、
天の御国と同じ意味だと考えて、
このたとえを読むと、意味がよくわからないと思います。
からし種のように小さいにもかかわらず、
天の御国は、天において大きく広がっていく。
パン種のように初めのうちは隠されているが、
時が来ると、驚くほどの力を発揮し、天の御国は、
天において広がり始める。
さっぱり意味がわかりません。
「天」と呼ばれる場所は、初めから神の領域なのですから、
天の御国が、天においてはじめは小さかったり、
時が来たら広がったりするなんてことが果たしてあるのでしょうか?
地上での生涯を全うし、天に召された人が、
一人、また一人と出てくることによって、
神のみもとへと受け入れられる人がどんどん増えていくのだから、
その受け皿である天が広がっていくことを描いているのでしょうか?
決して、そのような意味ではないと思います。
「わたしの父の家には住む所がたくさんある」(ヨハネ14:2)と、
イエスさまは証言されているのですから、
天の御国が、天において広がっていくという意味を込めて、
イエスさまがこのたとえを語ったとは考えられないと思います。
それならば、「天の国」とは何を意味するのでしょうか。
イエスさまは、「天の国は近づいた」(マタイ4:17)と宣言することから、
ガリラヤの地での宣教をはじめました。
つまり、私たちが天の国に限りなく近づいたと、
イエスさまは言っているのではありません。
そうではなく、天の国の方から、
私たちのもとに限りなく近づいて来たというのです。
天の国とは、もともとの言葉では「神の支配」を意味します。
神の領域である天においては、完全に神の支配はあります。
しかし、この地上、この世界においては、どうでしょうか。
イエス様の時代から、この地上には、
神の支配とは呼べないものの支配が多く広がっていました。
私利私欲で動く権力者をはじめ、
人間の罪や悪こそが、この世界を支配し、
大きな影響を与え続けていました。
それは、今の時代も変わらない現実でしょう。
イエスさまは、このような世界に、神の支配が訪れると宣言されたのです。
つまり、ここで語られている「天の国」を、
そのようなものといて受け止めるのならば、
イエスさまがなぜこのようなたとえを語ったのかがわかります。
私たちに与えられている、天の国、つまり神の支配が、
この地上で増え広がっていくという希望に溢れたたとえとして、
イエスさまはこのたとえを語られたのです。