しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2018年6月17日日曜日

説教#221:「新しい世界で生きる」


「新しい世界で生きる」
聖書 出エジプト記 20:12-17 、マタイによる福音書 19:13-30
2018年 6月 17日 礼拝、小岩教会

イエスさまが、子どもたちをご自分のもとに招き、
「天の国はこのような者たちのものである」と語った物語の直後に、
マタイは、ある一人の青年が登場する話を記しています。
この青年は、イエスさまにこのように尋ねました。

永遠の命を得るには、
どんな善いことをすればよいのでしょうか。(マタイ19:16)

「永遠の命」とは、この地上での命が永遠のものであり、
死ぬことはない、というような意味のものではありません。
それは、神から与えられる命であり、
生き生きとした命にあふれる、
神との永遠の関係を意味する言葉です。
どうやらこの青年は、純粋に、心から、
永遠の命を得る者となりたいという願いをもって、
イエスさまのもとに来たようです。
そんな彼の質問に対して、イエスさまは、
「善い方はおひとりである」(マタイ19:17)と答えて、
神だけが善い方であることを伝えています。
その上で、私たちを命へと導きたいと願っておられる、
神の御心が、神が良しとされることが、
律法に記されているのだから、
律法を守るようにと促すのです。
「もし命を得たいのなら、
掟を守りなさい」と(マタイ19:17)。
でも、「掟を守れ」と言われても、
具体的にはどのようなことかはわかりません。
ですから、この青年は「どの掟ですか?」と
イエスさまに尋ねたのです。

2018年6月10日日曜日

説教#220:「神が与えた道しるべ」


「神が与えた道しるべ」
聖書 創世記 2:18-24、マタイによる福音書 19:1-12
2018年 6月 10日 礼拝、小岩教会

きっと誰もが心のどこかで「理想」を抱いていると思います。
理想の自分、理想の生き方、
理想の社会、理想の家庭、
そして、理想の教会という具合に。
もしもすべての物事が、私たちの抱く理想通りになるならば、
どれほど喜ばしいことでしょうか。
でも、私たちは理想を掲げた後、
自分たちの置かれている状況を見るたびに、
その現実を見つめるたびに、失望し、落胆します。
理想通りにはいかない。
理想とはかけ離れている。
いや、もしかしたら、
日に日に理想から遠ざかっているかもしれないからです。
その意味で、私たちは、
理想と現実の狭間で生きているといえるでしょう。
でも、そもそも、私たちの理想の歩みとは、
一体どのような歩みなのでしょうか?
言い換えるならば、一体、何が神に喜ばれ、
何が善いことなのでしょうか……?(ローマ12:2参照)
きょう開かれた福音書の物語において、
イエスさまはファリサイ派の人々と出会い、
彼らと律法の解釈をめぐる論争を行っています。

2018年6月3日日曜日

説教#219:「私たちは何度赦されたのだろうか?」


「私たちは何度赦されたのだろうか?」
聖書 創世記 4:23-24、マタイによる福音書 18:21-35
2018年 6月 3日 礼拝、小岩教会

主よ、何回赦すべきでしょうか?(マタイ18:21)

何と切実な問いかけでしょうか。
そうです、私たちにとって、
誰かを赦し、誰かから赦されることは、生涯の課題です。
私たちは、誰もが赦しを必要としています。
気づかぬうちに、誰かを傷つけているかもしれません。
何気なく口にした言葉が、
共に生きる仲間たちに深い傷を与えることがあります。
良かれと思って行動した結果、誤解を与えたり、
誰かの怒りを買ったりすることだってあります。
でも、誰かを傷つけることを恐れて生きることは、
とても息苦しいことです。
ですから、私たちは些細な傷であれば、お互いに目をつぶり、
「全く、しょうがないな」と言って、
赦し合いながら、毎日の生活を送っています。
もしも、私たちがお互いに赦し合うことに失敗するならば、
関係が壊れてしまいます。
いいえ、どちらか一方が相手を赦すことを拒絶するならば、
関係が悪化するばかりです。
ですから、私たちは、いつも誰かを赦す備えが必要です。
そして、自分自身も赦される必要があります。
私たち人間を造られた神は、
私たちがたった一人で生きていくことが出来るようには、
私たちのことを造りませんでした。
誰かと共に生き、共に生きるその誰かとの関係性を喜ぶ存在として、
神は私たち人間を創造されたのです。
ですから、私たちは誰かと共に生きることが必要です。
家族や仲間たちと一緒に生きることが必要です。
でも、残念ながら、共に生きていく上で、
関係を損ねてしまうことが時としてあります。
口喧嘩したり、
誤解してしまったり、
対立してしまったり、
理解し合えなかったり、
お互いに背を向け合うことがあるのです。
ですから、私たちには赦しが必要なのです。
この私が、目の前にいるあの人を赦す準備が必要なのです。
そして、この私が、頭に思い描いているあの人から、
赦される必要があるのです。
だから、私たちは、神に祈り求めます。
「主よ、私たちには赦しが必要です」と。
ペトロも、誰かから赦され、誰かを赦すことの必要性、
そしてその難しさをよく知っていました。
だから、彼はイエスさまに尋ねました。

主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、
何回赦すべきでしょうか。
七回までですか。(マタイ18:21)

2018年5月27日日曜日

説教#218:「教会は歌いながら歩む」


「教会は歌いながら歩む」
聖書 エゼキエル書 33:7-11、マタイによる福音書 18:15-20
2018年 5月 27日 礼拝、小岩教会

私たち人間は、お互いに様々な違いを抱えています。
見た目も違えば、生き方も、考え方も違います。
感情の表現の仕方も、使う言葉だって違います。
同じ言葉を聞いても、受け取る印象が
人によって真逆であることもしばしばあります。
このような私たち人間の多様性は、
神が私たち人間を祝福した証しでもあるといえます。
どれほど豊かに、知恵や、ユーモア、何よりも愛情を込めて、
神が私たちを造られたのかがわかります。
でも、それなのに、私たちは
ともに生きる誰かとの間に違いを感じるとき、
お互いにわかり合うことが出来ないという、
諦めにも似た感情を抱くことがあります。
そして、時には、自分たちが抱える違いゆえに、
お互いに傷つけ合ってしまうことがあるのです。
きょうの物語において、イエスさまが取り上げている問題は、
教会の中で誰かを傷つけ、罪を犯してしまうという問題です。
そうです、教会は、その初めから今に至るまで、
すべての人が招かれているため、
実は、そのような問題はとても起こりやすいところです。
でも、イエスさまは、
「色々な考えの人々が集っているから、
このようなことが起こるのはしょうがないね」
とは言いませんでした。
イエス・キリストに従う信仰者たちは、
教会と呼ばれる、信仰者の群れは、
互いに愛し合うようにと、神から招かれています。
ですから、イエスさまは、
私たちに和解の道を示されたのです。
イエスさまは、人々にこのように告げました。

兄弟があなたに対して罪を犯したなら、
行って二人だけのところで忠告しなさい。
言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
(マタイ18:15)

2018年5月20日日曜日

説教#217:「小さな者と共に生きる」


「小さな者と共に生きる」
聖書 エレミヤ書 23:1-4、マタイによる福音書 18:1-14
2018年 5月 20日 礼拝、小岩教会

天の国に相応しいのは、「子どものような者」だ。
「心を入れ替えて子供のようにならなければ、
決して天の国に入ることはできない」(マタイ18:3)。
何て危険なことをイエスさまは語るのでしょうか。
私たちは、子どものようになることが
どれほど危険なことであるかをよく知っています。
家庭が傷つき、大人たちの都合で、
子どもたちが危険に晒されています。
悪意をもった人々の手で、
純真な子どもたちが傷つけられています。
幼い子どもが、なぜこんなにも簡単に
命を落とさなければならないのかと、
私たちはこれまで何度思ったことでしょうか。
そうです、子どもたちは、いつの時代も弱い存在です。
子どもたちは、支配される立場にあります。
教育を受ける権利が与えられているけれども、
大人の都合、国家の都合に合わせて、
教育が提供されることがしばしばあります。
また、子どもたちは、
自分の力だけで生きていくことが出来ないため、
親や、周りの大人たちを信頼し、
彼らに依存して生きなければいけません。
それなのに、育児放棄や虐待が絶えません。
そうです、子どもであることは、とても危険ことなのです。
ですから、私たちの願いは、
イエスさまの言葉とは正反対のところにあるのかもしれません。
成熟し、自立し、他の何ものにも頼らずに
生きることの出来る大人になること。
それこそが、私たちの願いなのではないでしょうか。
歳を重ねれば、重ねるほど、
私たちは子どもからは遠ざかり、子どもには戻れません。
いいえ、心の底から、戻ろうとなど思ってはいないのです。
ただ、子どもになることを前向きに受け取れないのは、
何も、現代に生きる私たちだけではありません。
イエスさまの時代に生きた人々は、
私たち以上に、子どもになることに対して、
否定的な感情を抱きました。
子どもたちは、完全な価値を持つ個人とは
見られていなかったからです。
未完成で、理性がなく、教育が必要な存在。
それが子どもという存在でした。
だから、子どもたちは、人数を数えるときには、
その数には入れられませんでした。
そのため、「子どものような者にこそ、
天の国は開かれる」とイエスさまが語ったとき、
人々は驚きを覚えて、イエスさまの言葉を
その心に刻み込んだことでしょう。
そして、同時に、彼らは首をかしげました。
「この男が語ることは、
一体、どういう意味なのだろうか?」と。
イエスさまは一体、どのような意味を込めて、
「子どものようにならなければ」と語ったのでしょうか。

2018年5月13日日曜日

説教#216:「神の支配こそが訪れますように」


「神の支配こそが訪れますように」
聖書 マラキ書 3:8-12、マタイによる福音書 17:24-27
2018年 5月 13日 礼拝、小岩教会

お金。
それは、私たちの日常的な問題です。
私たちが生きるこの社会において、
生きていくための環境や食べ物を得るためには、
お金はなくてはならないものです。
命を保つためだけでなく、
ひとつの命が生まれるときにも、
また死を迎えるときでさえも、私たちはお金の必要に迫られます。
その意味で、お金とは、生涯、私たちの頭を悩ませる問題といえます。
きょうの物語において、イエスさまはお金の問題について、
ご自分の思いを私たちに示されました。
このときに問題となったのは、神殿税を納めることについてでした。
実はこの当時、ユダヤの社会において、
エルサレム神殿で行われる礼拝のために、神殿税が集められました。
ユダヤ人の成人した男性たちは、毎年、
日雇い労働2日分の賃金に相当する額を納めていたようです。
それは、神殿で神を礼拝するすべてのユダヤ人にとって、
必要なものだったため、義務として集められていました。
どうやら、出エジプト記30章に記されている、
「登録が済んだ者はすべて、聖所のシェケルで
銀半シェケルを主への献納物として支払う」(出エジ 30:13)
という言葉が根拠となり、神の名の下でこのお金は集められたようです。
しかし、イエスさまは、この神殿税を問題視しました。
それは、「神殿税」という名称からもわかるように、
神の名の下で、ユダヤの人々の義務として集められていました。
その意味で、地上の王たちから義務として徴収され、
国のためにのみ用いられる税金と何の違いもないと、
「神殿税」はユダヤの人々から考えられていたのです。
マタイ福音書の物語において、
ペトロは、神殿税をイエスさまが納めるのかどうかについて、
税を集める人々から問いかけられました。
そのような問いかけをペトロが受けたことを知ったイエスさまは、
ペトロにこのように語りました。

シモン、あなたはどう思うか。
地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。
自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。
(マタイ17:25)

イエスさまは、王は自分の子どもたちからは
税を取らない、ということをペトロに伝えています。
つまり、神の国において、神は、
ご自分の子とし、神の国の市民権を与えた信仰者たちに、
そのような義務を与えることはないと、
イエスさまは宣言しているのです。

2018年5月6日日曜日

説教#215:「希望に結びつく悲しみ」


「希望に結びつく悲しみ」
聖書 エゼキエル書 37:1-14、マタイによる福音書 17:22-23
2018年 5月 6日 礼拝、小岩教会

私たちは人生のさまざまな場面で悲しみを経験します。
お気に入りの傘を電車で忘れてしまった時。
失敗をくり返し、自分の力の無さを実感する時。
言葉や態度によって、周囲の人々を傷つけてしまい、
自分自身の愛の無さ、配慮の無さを知り、自分自身に失望する時。
周りの誰からも理解を得られず、孤独を感じる時。
大切な人から裏切られた時。
そして、愛する人との別れを経験した時。
悲しみの度合いや、悲しむ理由は、実に様々ですが、
私たちは、何度も何度も悲しみに直面させられます。
このように私たちが経験する悲しみを
私たちは一体どのように受け止めれば良いのでしょうか?
使徒パウロは、コリントの教会に宛てて書いた手紙の中で、
その当時、コリントの教会の人々が抱いていた悲しみについて、
このように書きました。

神の御心に適った悲しみは、
取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、
世の悲しみは死をもたらします。(Ⅱコリント7:10)

私たちが抱く悲しみには、
ふたつの種類の悲しみがあるとパウロは言います。
それは、「神の御心に適った悲しみ」と「世の悲しみ」である、と。
そして、神のみ心にかなった悲しみは、
救いに通じる悔い改めを生じさせ、
世の悲しみは、私たちに死をもたらすと、
パウロは結論づけています。