しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2017年9月17日日曜日

説教#184:「それでも種を蒔こう」

「それでも種を蒔こう」
聖書 マタイによる福音書 13:18-23、ホセア書 10:12
2017年 9月 17日 礼拝、小岩教会

【弟子たちはどのように受け止めただろうか?】
種を蒔く人のたとえ話をイエス様が解説するのを聞いたとき、
弟子たちはこの話を一体どのように受け止めたのでしょうか。
ある人はこう思ったことでしょう。
「自分は神の言葉を聞いても、なかなか理解することが出来ないし、
まるでこの話の道端のように、
頑なな心でしか神の言葉を聞けていません」と。
またある人は、石だらけの土地に自分を重ねて聞きます。
「確かに、聖書が開かれて、神の言葉が自分のもとに届くとき、
私はいつも嬉しくなります。
でも、実際は、神の言葉を蔑ろにした日々を送ってばかり。
神の言葉が、自分の行動にも、
生活にも、また人格にも、全く根付きません。
形だけの信仰をもって生きているこの私こそ、石だらけの土地です」と。
中には、茨の繁る土地に自分を重ねる人もいました。
「信仰をもって生きるのはとても大変なんです。
現実には、私の心を悩ませることが多すぎます。
人間関係もそうですし、お金の使い方にだって悩みます。
悩みすぎて、息苦しい思いをしながら毎日過ごしています」と。
でも、ある人は言います。
「そうです、このたとえで描かれている良い土地とは、
まさに私のことです!
神が語ってくださる言葉を喜んで聞いて、
忠実にそれを行っているから、私の毎日は充実しています。
神の言葉は、私の心で、いや人生で、何十倍にも豊かになりました」と。
このように、種蒔きのたとえ話を聞いた人たちが、
「自分はどの土地かな?」と考えながら聞くことが出来るように、
イエス様は4種類の土地に注目して、たとえを解説したように思えます。
しかし、イエス様は、「自分は4種類の土地の中のどれなのか」と、
弟子たちに考えさせたいのではないと思います。
というのも、人間という存在はもっと複雑な存在だからです。
私たち人間が、4種類の存在に分けられるわけがありません。
寧ろ、ここで語られていることのすべてが、
一人の人の中で常に起こり得ることと捉える方が良いと思います。
つまり、足で踏み潰されて固くなった、道端のように、
私たちの心は頑なになり、神の言葉を拒否することもあれば、
岩だらけの土地のように、根が生えない、
表面的な信仰を抱くこともあります。
たとえ信仰を抱いていても、茨の生い茂る土地のように、
現実の悩みや苦しみに押しつぶされそうになるときもあれば、
反対に、聖書を通して神が語り掛けてくださるとき、
その喜びや感謝が100倍、60倍、30倍にも
増え広がることだってあります。
その意味で、このたとえの解説を聴いている人たちが、
「今、神の言葉を聞いている私の心は、
一体どのような状態にあるのだろうか?」と、
自分に問い掛け、自分と神との関係を顧みることを願って、
イエス様は、このような解説を語られたのです。

2017年9月10日日曜日

説教#183:「あなた方の目と耳は幸いだ」

「あなた方の目と耳は幸いだ」 
マタイによる福音書 13:10-17、イザヤ書 6:9-13
2017年 9月 10日 礼拝、小岩教会 

【なぜたとえを用いてイエスは話すのか?】 
種まく人のたとえをイエス様が語るの聞いたとき、 
弟子たちの心に疑問が湧いてきました。 
「このたとえを通して、 
イエス様が伝えようとしていることは、 
弟子である自分たちには何となくわかる。 
でも、人によっては全くもって意味不明! 
チンプンカンプンに違いない。 
たとえなど用いないで、もっとわかりやすく語れば良いのに、 
何でイエス様はこのような話し方をするのだろうか」と。 
そのため、彼らはたとえを用いて語る理由を、イエス様に尋ねました。 
弟子たちの質問に対して、イエス様はこのように答えます。 

あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、 
あの人たちには許されていないからである。(マタイ13:11) 

「天の国の秘密」とは、一体何を意味しているのでしょうか。 
「秘密」と訳されている言葉は、 
人間の理性では決して知ることの出来ない、 
神の思いや神の計画を意味する言葉です。 
つまり、「天の国」とは、神の側が明らかにしなければ、 
私たち人間は知ることも出来ない。 
いや、見ることも、聞くことも出来ないものなのです。 
しかし、天の国の秘密は、
イエス様を通してすべての人に明らかにされました。 
「天の国は近づいた」と語り、人々を教え、 
病人を癒し、悪霊を追い払い、罪の赦しを与える 
イエス様を通して、天の国は明らかにされました。 
でも、イエス様の言葉を聞き、イエス様の生き様を見たすべての人が、 
イエス様を心から受け入れ、
天の国の到来を信じたわけではありませんでした。 
中にはイエス様と距離を置く人、 
イエス様に強く反発し、イエス様を殺そうとする人までいました。 
ですから、イエス様は、天の国について語るとき、 
たとえを用いて語ることを選ばれたのです。 
自分の言葉を聞いて強く反発してしまう人たちが、 
何とか耳を傾け、天の国について知ることが出来るようにと願って、 
イエス様はたとえを用いて語られたのです。 

2017年9月3日日曜日

説教#182:「種を蒔く人を見よ」

「種を蒔く人を見よ」
聖書 マタイによる福音書 13:1-9、エゼキエル書 36:9-11
2017年 9月 3日 礼拝、小岩教会 

【主イエスがたとえを用いて語った理由】
ガリラヤ湖に浮かぶ舟に腰を掛け、
きょうも、イエス様は人々に語り始めました。
イエス様の語る言葉を、岸辺に立って真剣に聞いていた、
多くの人たちにとって、この「種まき」の話は、
イエス様が語られたたとえ話の中でも、
特に親しみを覚える話だと思います。
というのも、種が蒔かれて、その種が成長するのを見守り、 
収穫に一喜一憂するのは、 
この当時の人々にとって日常的なことだったからです。 
このように、イエス様は、人々に親しみ深い形で、 
神の国についてのたとえを語りました。
でも、イエス様の話は、とてもわかりやすく感じる一方で、 
イエス様がこの話を通して何を伝えようとしているのかは、 
すべての人に明らかだったわけではありません。
ある人は、その意味を理解し、うなずきながら聞いていました。 
またある人は、「この人は何故このような話をするのだろうか」と、 
首をかしげながら、悩んだことでしょう。
イエス様がたとえを用いて語るときは、
多くの場合、「天の国」について、人々に知らせるために語っています。
でも、そもそもなぜイエス様はたとえを用いて、
語る必要があったのでしょうか。
それは、「天の国」とは、
人々がこれまで触れたことがない、未知のものだったからです。
もしも私たちが未知のものについて知ろうとするとき、 
既に知っていることを土台にして理解する必要があります。
ですから、未だ完全にその全貌を知ることが出来ないけれど、
確かに私たちには「天の国」が与えられている、
ということを教えるために、イエス様はたとえを用いられたのです。
たとえ話を聞いて、その光景を想像することを通して、
天の国について創造的に、自由に思い巡らす。
これこそ、イエス様が、
たとえ話を用いて天の国について語ったことの狙いです。

2017年8月27日日曜日

説教#181:「祝福を受け継ぐ家族」

「祝福を受け継ぐ家族」 
聖書 マタイによる福音書 12:46-50、創世記 28:10-19 
2017年 8月 27日 礼拝、小岩教会 

【わたしの母とは、兄弟とは誰か】 
イエス様が人々と語り合っていたとき、 
そこにイエス様の家族がやって来たそうです。 
どうやら、彼らは、イエス様と話したいことがあったため、 
イエス様のところにまで来たようです。 
一体、イエス様に何を話しに来たのか気になるところですが、 
どうやら、それはこの物語を書き留めたマタイの関心ではなかったようです。 
マタイはイエス様の家族が来た理由など説明せず、
別のことに、私たちの目を向けようとしています。 
マタイが注目するようにと私たちに促しているのは、 
「あなたの母と兄弟たちが、 
あなたに話したいことがあって来ていますよ」 
という報告を受けたときのイエス様の返事にです。 
このとき、イエス様はこのように答えて言いました。 

わたしの母とはだれか。 
わたしの兄弟とはだれか。(マタイ12:48) 

「イエス様、そんな当たり前のことを聞き返さないでください。」 
きっと、その場にいた人々はそう思ったと思います。 
「母」という言葉を聞いて、多くの人が真っ先に思い浮かべるのは、 
自分を産み、育ててくれた女性のことです。 
また、兄弟や姉妹については、 
両親またはどちらかの親を同じくする 
子どもたちのことを思い浮かべることでしょう。 
つまり、血による繋がりを意識して、 
私たちは母や兄弟について、そう家族について考えます。 
また、養子を家族の一員として受け入れることも、 
聖書の時代からありました。 
ですので、血の繋がりに加えて、 
法的に必要な手続きを行った関係を 
私たちは家族と呼んでいるといえるでしょう。 

2017年8月20日日曜日

説教#180:「キリストのしるし」

「キリストのしるし」
聖書 マタイによる福音書 12:38-45、ヨナ書 2:1-11
2017年 8月 20日 礼拝、小岩教会

【しるしを求める人々】
しばしば勘違いされることがあるのですが、 
イエス・キリストの「キリスト」とは、 
イエス様の苗字のことではありません。 
つまり、キリスト家のイエスという名前の男がいた、
というわけではないのです。 
イエス様が生きた時代の人々は、
多くの場合、生まれ育った地域や、
家族の名前と結びつけられて名前を呼ばれていました。 
ですから、イエス様は「ナザレのイエス」や「ヨセフの子であるイエス」
といったように、人々から呼ばれていました。
それでは、家族の名前や民族の名前ではないならば、
「キリスト」とはどういう意味で用いられたのでしょうか。
キリストは、救い主メシアを意味する「称号」です。
ですから、イエス・キリストとは、 
「イエスは救い主キリストである」という、信仰を告白する言葉です。 
でも、イエス様は、初めから救い主として、キリストとして、 
ユダヤの人々の間で受け入れられたわけではありません。 
ただ、イエス様の言葉を聞き、 
病の癒しや悪霊を追い払うといった、 
イエス様のなさる様々な行いを見たとき、 
人々は口々に噂するようになりました。
「もしかしたら、この人がキリストかもしれない」と。
この噂はユダヤの人々の間で、 
徐々に期待となって現れてきました。 
でも、だからと言って、 
「このイエスという男がキリストである」という確証など、 
誰も持つことは出来ませんでした。 
だからこそ、本人に聞いて、はっきりさせたかったのでしょう。 
「先生、しるしを見せてください」(マタイ12:38)と、
律法学者とファリサイ派の人々のうちの何人かが、
イエス様にお願いしたと、マタイは報告しています。
「もしも、あなたがキリストであるならば、 
そのしるしを見せることは可能でしょう? 
だから、あなたがキリストであるしるしを私たちに見せてください」。 
確かに、このようなお願いをしたくなるのはよくわかります。 
信じるために、確かなしるし、確かな証拠がほしいのです。 
そのようなしるしがなければ、信じられない。 
まるで、私たちの心の思いを代弁しているかのようです。 

2017年8月13日日曜日

説教#179:「言葉が結ぶ実」

「言葉が結ぶ実」
聖書 マタイによる福音書 12:33-37、イザヤ書 55:6-11
2017年 8月 13日 礼拝、小岩教会

【言葉を語ることは、生き方の問題】
人間にとって、言葉はとても大切なものです。
私たちは日頃、言葉で挨拶を交わし合うことで、お互いに繋がりを持ちます。
言葉を用いて、自分の気持ちや意思を伝え、
質問を投げかけて目の前の人のことを、もっとよく知ろうと努めます。
もちろん、口から語られるものだけが言葉ではありません。
話すときの身振り手振りだって、全身を使って発している言葉です。
目の前の人の表情や声の調子によって、言葉が伝わる場合だってあります。
その意味で、この口で語るものだけが言葉なのではなく、
私たちの全存在、全生涯が言葉となり、人に伝わっていくのです。
そうです、まさに、言葉を語るということは「生き方の問題」なのです。
そう考えると、私たちは言葉に対してますます難しさを感じます。
自分が日頃語る言葉や日々の行い、これまでの人生を振り返るならば、
誰の目から見ても誤りや失敗などは、全くないなどということはあり得ません。
共に生きる人たちとの間に、言葉によって、良い繋がりを築くどころか、
かえって争いを生み出してしまいます。
愛や憐れみに満ちた言葉よりも、怒りや嫉妬に満ちた言葉を吐き出して、
簡単に目の前の人を傷つけてしまいます。
たとえ、誰も傷つけないように口を閉じて黙ったとしても、
表情や行動によって誤解を生み出してしまうことだってあります。
その上、口で語ることと実際の行動とが
完全に一致していないことさえあるのが、私たち人間というものです。
ですから、いつも心から沸き起こる言葉をどのように用いるのかは、
私たちにとって大きな課題なのです。

2017年8月6日日曜日

説教#178:「神の国はあなたたちのところに来ている」

「神の国はあなたたちのところに来ている」
聖書 マタイによる福音書 12:22-32、イザヤ書 49:24-25
2017年 8月 6日 礼拝、小岩教会 

【主イエスを歓迎する人々】 
イエス様の時代の人々にとって、「悪霊の支配」は恐るべきものでした。 
悪霊は人々に病をもたらし、口をきけなくさせ、 
耳から音を奪い、目から光を奪いました。 
また、悪霊は人を迷わせ、堕落させる存在として考えられていました。 
そんな悪霊に憑かれてしまった人々は、
墓場に住むなどして、社会から遠ざかって暮らすことを、 
周りから強いられることさえありました。 
このような形で悪霊に苦しんでいる人々と出会う度に、
イエス様は関わりを持ち、悪霊を追い払われました。 
そうすることによって、悪霊の支配の下で生きる人々を、 
その苦しみから解放し、本来あるべき生活へと戻されたのです。 
このような働きをするイエス様のもとに、 
きょうもまた、悪霊に憑かれた人が、連れられて来たそうです。 
目が見えず、口がきけなくなっていたこの人から、 
悪霊を追い払い、イエス様はその人を癒しました。 
このとき、イエス様の行った業を見た多くの人々は驚き、 
「この人はダビデの子ではないだろうか」(マタイ12:23)と 
声を上げたと、マタイは記しています。 
それは、イエス様を心から歓迎する声でした。 
「ダビデの子」とは、救い主メシアを現す称号です。 
イスラエルを再建して、ダビデの時代のような栄光をこの国に取り戻し、 
世界に平和をもたらす存在として、 
「ダビデの子」と呼ばれる救い主の登場を 
ユダヤの人々は待ち続けていました。 
多くの人々の病を癒し、 
驚くべき権威に満ちた教えを語り、 
時には嵐を静め、 
そして今、自分たちの目の前で、悪霊を追い払った、 
そんなイエス様の姿を見て、その場にいた人々は思ったのです。 
「この人こそが、私たちが待ち望み続けた 
ダビデの子なのではないだうか」と。