しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2018年2月18日日曜日

説教#205:「愛こそが、いつまでも残りますように」

「愛こそが、いつまでも残りますように」
聖書 サムエル記 上 16:11-13、マルコによる福音書 14:1-11
2018年 2月 18日 礼拝、小岩教会

イエスさまを殺そうと計画する人々がいたこと。
そして、イエスさまの弟子の一人であったイスカリオテのユダが、
イエスさまを裏切ろうとしていたこと。
不穏な空気が漂う、このようなふたつの物語に挟まれて、
名も無き一人の女性の行動が描かれています。
正直、この女性の行動には驚かされます。
食事の席についていたイエスさまのもとへ、
彼女は香油の入った石膏の壺を持って入って行き、その壺を割って、
イエスさまの頭に香油を注ぎかけた、というのですから。
でも、食事の際に香油をかけるという行為自体は、
この当時のユダヤの文化では、とても自然なことでした。
寧ろ、この時の彼女の行動が、
その場にいた人々にとって異常に思えたのは、
「ナルドの香油」というとても高価な香油を、
彼女が惜しまずに、すべてイエスさまに注いだことにありました。
香油の入った壺を割った音が聞こえ、
香油の香りが漂ってくる。
これがナルドの香油の香りだと気づいた時、
そこにいた人々は眉をひそめ、彼女を批判し始めました。
人々は口々に彼女に対する批判を言い、
彼女へ向けられた攻撃的な言葉は、家中に響きわたりました。

なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。
この香油は三百デナリオン以上に売って、
貧しい人々に施すことができたのに。(マルコ14:4-5)

確かに、彼らの批判はもっともです。
彼女がイエスさまに注いだナルドの香油は、
300デナリオン以上の価値がありました。
それは、当時のユダヤの日雇い労働者の一年分の賃金です。
もちろん、毎日の生活だけでも大変でした。
ですから、この香油は彼女にとって、
一年分もの賃金を時間をかけて貯めて、
ようやく手に入れ、手元に置いていた大切な財産でした。
いや、もしかしたら、このナルドの香油は、
彼女だけの力では手に入れられなかったかもしれません。
ある日、両親から手渡されたものだったかもしれません。
彼女がどのようにこの香油を手に入れたにせよ、
この香油が貴重なものであることは、明らかなことです。
しかし、それほど大切なものを手放した彼女の行動の理由には、
その場にいた誰も目を向けようとはしませんでした。
なぜ高価な香油をイエスさまに注ぐのかと、
その意味を真剣に考え、彼女の心に共感し、
彼女の行動を受け止める人はいませんでした。
悲しいことに、この場にいた人々は、
自分の考える正しさを基準にして、
彼女の行動を裁いていたのです。
「これほど高価なものを手放す選択をするならば、
貧しい人々に施すことこそが、信仰的な理由だろう?」と言って、
彼女の行動は、無意味なこと、愚かなことと受け止めたのです。

2018年2月11日日曜日

説教#204:「私たちの旅路は神の憐れみで満ちている」

「私たちの旅路は神の憐れみで満ちている」 
聖書 申命記 8:1-10、マタイによる福音書 15:29-39 
2018年 2月 11日 礼拝、小岩教会 

この日も、いつものように、
イエスさまのもとにはたくさんの人々がやって来ました。
この時、イエスさまのもとに集まった人々は、それぞれ、
自分たちの身の回りにいる
病や身体の不自由さで苦しむ人々を、
イエスさまのもとに連れて来たそうです。
私たちの手元にある、日本語訳の聖書では、
「イエスの足もとに横たえた」(マタイ15:30)
と記されていますが、
ここで「横たえた」と訳されている言葉は、
「投げ捨てる」という少しきつい意味をもっています。
もちろん、文字通り、人々がイエスさまの足元に
病人たちを投げ捨てたわけではないと思います。
次から次へと、絶え間なく、
病人たちがイエスさまのもとに連れて来られた。
きっと、そのような様子をマタイは描いているのでしょう。
そのように、次から次へとやって来る病人たちに、
イエスさまは急ぎつつも、しっかりと関わりを持ち、
彼らの病や身体の不自由さを癒やされました。
そして、それを見た人々は驚き、神を賛美したと、
マタイは報告しています。
しかし、この物語はこれで終わりではありませんでした。
イエスさまは、弟子たちを集めてこのように言われたのです。 
「群衆がかわいそうだ」(マタイ15:32)と。
そこにいた人々は、どのような人たちだったでしょうか?
そこにいたのは、イエスさまの噂を聞いて、
イエスさまが起こす奇跡に期待して、集まった人たちでした。
その中には、病に苦しむ友人や愛する家族を癒してもらうために、
イエスさまのもとに連れてきた人たちもいました。
彼らは、自分の愛する人々が癒された光景を見て、
心から喜んでいました。
連れて来られた身体の不自由な人たちだってそうです。
今まで、口がきけなかったのに、言葉が与えられた。
耳が聞こえなかったのに、聞こえるようになった。
目が見えなかったのに、見えるようになった。
歩けなかったのに、歩けるようになった。
癒されることなど諦めていたのに、
イエスさまと出会ったとき、イエスさまが癒やしてくださった。
それは、踊り出したいほど、喜ばしいことだったと思います。
でも、そんな彼らを見て、イエスさまはこう言われたのです。
「群衆がかわいそうだ」と。

2018年2月4日日曜日

説教#203:「境界線の向こうへ」

「境界線の向こうへ」
聖書 ヨナ書 1:1-3、マタイによる福音書 15:21-28
2018年 2月 4日 礼拝、小岩教会

私たちは、人との間に色々な形で線引きをします。
性別の違い、国籍の違い、学校やクラブといった所属する団体の違い、
年齢の違い、文化や言葉の違い、考え方の違いといったように、
自分たちの間に存在する違いを意識して、私たちは境界線を引きます。
その境界線を用いて、お互いの違いを区別しつつも、
その違いを心から喜べる間は良いのですが、
時々、私たちは間違いを犯してしまいます。
いつの間にかその境界線を用いて、人を差別したり、
その境界線の上に、簡単には越えられない壁を作り出して、
自分たちとはモノの考え方や、見た目の違う人たちを
拒絶したり、差別してしまったりするのです。
そのような境界線の用い方は、
ある特定の民族や文化に敵意が向けたれたり、
女性だから、黒人だからといった理由で差別を受けたりするなどして、
人類の歴史の中で、何度も何度も繰り返されてきました。
そしてこの問題は、残念ながら、
私たちの日常にも潜んでいる問題だと思います。
きょうの物語では、ひとつの大きな境界線が登場します。
それは、「イスラエル人」と「異邦人」という境界線です。

2018年1月28日日曜日

説教#202:「それでも聖なる民とされた」

「それでも聖なる民とされた」
聖書 出エジプト記 19:3-6、マタイによる福音書 15:1-20
2018年 1月 28日 礼拝、小岩教会

イエスさまがさまざまな奇跡を行ったことや、
権威をもって律法を人々に語り教えたこと、
そして、イエスさまに従ってついて行く人々がたくさんいたということは、
ユダヤの人々の間で噂になっていました。
その噂を聞きつけて、エルサレムからファリサイ派の人々と
律法学者たちがやって来たと、マタイは報告しています。
エルサレムといえば、神殿が建てられている、ユダヤの国の中心地です。
そのような場所から、わざわざイエスさまのもとに、
宗教的指導者であるファリサイ派の人々や律法学者たちが来たのです。
おそらく、イエスさまが噂通りの人物かを確認しに来たのでしょう。
イエスという男はどのような教えを語り、
彼に従う人々はどのような人たちなのかを、
実際にその目で見て確認するために、
ファリサイ派の人たちや律法学者たちは、
エルサレムからイエスさまのもとにやって来たのです。
実際にイエスさまと出会い、イエスさまの言葉を聞き、
イエスさまの行いを見た彼らでしたが、
イエスさまのそばにいる弟子たちを見たとき、
ひとつ気になることが心に浮かんできました。
そのため、彼らはイエスさまにこのような質問をしたのです。

なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。
彼らは食事の前に手を洗いません。(マタイ15:2)

2018年1月21日日曜日

説教#201:「信仰者の船旅」

「信仰者の船旅」
聖書 マタイによる福音書 14:22-36、創世記 7:10-16
2018年 1月 21日 礼拝、小岩教会

それは、夜明け前、午前3時から6時頃の時間帯のことでした。
ガリラヤ湖に浮かぶ舟に乗った弟子たちは、思い悩んでいました。
イエスさまに命じられて、向こう岸を目指して舟を漕ぎ出したものの、
逆風のため、舟は思うように前へ進みません。
どれだけ進んだのかも、あとどれだけ舟を漕げば良いのかも、
夜の暗闇のせいで全くわかりません。
弟子たちは疲れ果てていました。
その上、彼らが乗る舟に向かってくる風は、波を引き起こし、
何度も何度も、水が舟に覆いかぶってきました。
ガリラヤ湖のような湖を渡るのに、屋根のついた立派な舟は用いません。
そのため、身体は水で濡れ、体温を奪われ、寒さに震えながら、
弟子たちは残る力を振り絞って、舟を漕ぎ続けていました。
この当時の舟に、エンジンのような動力などありませんから、
夜空の星が示す正しい方角だけを頼りにして、
間違った方向へ行かないように、
彼らはお互いに協力し合って、必死に舟を漕ぎ続けていました。
そんな時、ふと弟子たちの頭をよぎることがありました。
「イエスさまは、なぜ一緒にいてくれないのだろうか。
なぜこんなに風が吹き荒れている中、
湖を横切って、向こう岸へ行くようにと言われたのだろうか」と。

2018年1月14日日曜日

説教#200:「あなた方が与えなさい」

「あなた方が与えなさい」
マタイによる福音書 14:13-21、列王記 下 4:42-44
2018年 1月 14日 礼拝、小岩教会

人里離れた場所へ行ったイエスさまを追いかけて、
多くの人々がイエスさまのもとに集まりました。
そこに集ったのは、成人した男性だけで
およそ5,000人もいたと、マタイは報告しています。
女性と子どもたちも含めれば、
そこには少なくとも2万人はいたことでしょう。
イエスさまはいつものように、集まってきた人々の病を癒やし、
彼らに教えを語られました。
あっという間に、時は過ぎ去り、
いつの間にか日が暮れる頃になってしまいました。
でも、人々はなかなか帰ろうとする気配がありません。
弟子たちとしては、そろそろ夕飯を食べて、ゆっくり休みたいところです。
ですから、彼らはイエスさまに提案しました。

「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。
群衆を解散させてください。
そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」
(マタイ14:15)

弟子たちがこのような判断をするのは当然のことです。
2万人分の食料を用意するなんてこと、急に出来るわけがありませんし、
何よりも、それだけの食料を
手に入れるためのお金だってあるわけありません。
弟子たちは現実に物事を考えて、イエスさまに提案をしました。
でも、イエスさまからは思いがけない答えが返ってきました。

「行かせることはない。
あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」(マタイ14:16)

2018年1月7日日曜日

説教#199:「拒絶されても、あなたを愛する神」

「拒絶されても、あなたを愛する神」
聖書 マタイによる福音書 14:1-12、エレミヤ書 36:21-29
2018年 1月 7日 礼拝、小岩教会

バプテスマのヨハネの死は、
とてもショッキングな出来事のひとつです。
ヘロディアの娘が、ヘロデの誕生日のお祝いの席で踊りを披露した後、
ヘロデから「願うものは何でもやろう」と言われた彼女は、
母親にそそのかされ、ヨハネの首を求めます。
そして、彼女たちの願いどおりに、ヨハネは首を切られ、
その首が盆に載せて運ばれてきたというのです。
母親の命令とはいえ、恐らくまだ10代であろう少女が、
美しい踊りを終えた後に、首を求める。
もともとの言葉では、二人称命令形で「あなたは私に与えよ」と、
とてもきつい表現で記されています。
そのため、この親子は、冷たく、いやらしい人間として、
描かれていることがよくわかります。
そして、首を受け取った少女の反応も描かれることなく、
母親のもとにヨハネの首は届き、
この狂気じみた報告は幕を閉じます。
私たちはこの出来事を、
一体どのようにして受け取れば良いのでしょうか。