しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2017年5月28日日曜日

説教#168:「収穫は多いの?」

「収穫は多いの?」
聖書 マタイによる福音書 9:35-38、エレミヤ書 23:1-6
2017年 5月 28日 礼拝、小岩教会

【主イエスにぶつけたい疑問】
きょうのイエス様の言葉を、
私たちはどのように受け止めたら良いのでしょうか。 
「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタイ9:37)とイエス様は言います。 
でも、この言葉を聞いた私たちは思うのです。 
「本当に収穫は多いのでしょうか。 
イエス様、今の日本の教会の状況を見てください。 
多くの教会は、礼拝出席者の数が徐々に減っています。 
その上、高齢化も進んでいますし、 
子どもたちも、かつてのあの頃より激減しました。 
寧ろ、私たちの目には収穫は少なく見えます。
収穫は多いなんて、冗談でしょう?」といった具合に。
そうです、私たちが通常考える収穫とは、 
「どれだけ目に見える成果を生み出すことが出来たか」です。
それは、どれだけキリストを信じる人々が起こされたかであり、 
礼拝出席者がどれだけ増えたのか、とも言うことが出来るでしょう。
また、聖書的・キリスト教的なもの考え方や価値観が、 
この世界にどれだけ広がり、人々から受け入れられたのか。
そういったところで、 私たちは「収穫」の豊かさや乏しさを判断するのです。 
しかし、イエス様は、私たちを取り巻くこのような状況や、
私たちが心で思うことを知った上で、このように宣言されました。 
「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタイ9:37)と。 
ということは、今私たちに与えられている収穫は、神の目には多く見えていて、 
私たちが、収穫に対して、あまりにも貪欲になりすぎているのでしょうか? 
私たちは、過度に収穫を期待し、多くを求めすぎてしまっているのでしょうか? 
このように、イエス様が語った「収穫は多い」という言葉に対して、
どこか納得できないため、私たちはイエス様に対して、
疑問をぶつけたくなってしまうのです。 

2017年5月14日日曜日

説教#167:「嘆きと悲しみは逃げ去る」

「嘆きと悲しみは逃げ去る」
聖書 マタイによる福音書 9:27-34、イザヤ書 35:5-10、詩編40
2017年 5月 14日 礼拝、小岩教会 

【憐れみを必要としていた二人の人】
悲鳴にも似た叫び声を上げながら、2人の人が、 
イエス様のもとに近づいて来ました。 
彼らが抱えていた問題とは、目が見えないことでした。 
生まれつきだったのか、それとも、何らかの事故や病気が原因だったのか、 
彼らが目が見えない、詳しい理由はわかりません。 
どのような理由で、目が見えなくなったにせよ、 
私たちが思う以上に、彼らは困難を抱えていたと思います。 
イエス様の生きた、今から2,000年ほど前の時代は、 
現代のように、点字ブロックが道に敷かれてはいませんでしたし、 
目が見えない人の生活のために必要な配慮は、
それほど多くはなされていませんでした。
ユダヤの律法に「目の見えぬ者の前に 
障害物を置いてはならない」(レビ19:14)とあるように、 
目が見えない人たちを保護し、助けることは、神の命令でした。
しかし、どれだけ、この言葉は守られていたのでしょうか。
実際、目が見えないことが原因で、 
仕事にも就けず、誰の助けも得られずにいたため、 
物乞いをして、何とか生活を続けていた人たちが、
この時代には何人もいました。
生活上の困難に加えて、彼らは多くの苦しみを、その心に負っていました。
「なぜ自分は目が見えないでいるのだろうか。
これは、神から与えられた罰なのではないだろうか。
一体、自分の何が悪かったのだろうか」と。
これらの疑問に答えてくれる人は誰もいませんでした。
いや、このようなことを誰かに尋ねることは、とても勇気のいることです。
もしも誰かに尋ねた結果、「お前が神に愛されていない、
罪人であるからだ」などと言われたならば、もう立ち直れません。
ですから、目が見えない人々の多くは口を閉ざし、
今の自分が置かれている現状を、ただ受け止める他なかったのです。
そこには、将来への希望や、喜びなど、全くありません。
だから、彼らには憐れみが必要でした。
愛をもって自分に向かって伸ばされる、温かく、優しい手が必要でした。
失望し、悲しみで溢れている、彼らが置かれている今のこの状況に、
目を注ぎ、心からの憐れみの言葉を掛けられることが、彼らには必要でした。
でも、何処にそのような人がいるのでしょうか。
中には助けてくれる人もいましたが、多くの場合、
それは一時的な助けに過ぎませんでした。
そして、彼らの耳にいつも聞こえていたのは、
彼らの目の前を人々が通り過ぎていく足音でした。
まるで、自分の存在そのものを否定されているような経験を、
彼らは日常的に、繰り返し、繰り返し、経験していたのです。

2017年5月7日日曜日

説教#166:「死んだのではない、眠っているのだ」

「死んだのではない、眠っているのだ」
聖書 マタイによる福音書 9:18-26、列王記 上 17:17-24
2017年 5月 7日 礼拝、小岩教会

【主イエスのもとへ行くことを選んだ理由】 
イエス様のもとにはいつも、悪霊につかれた人、
重い病を患っている人たちが、 癒やしを求めて近づいて来ました。 
時には、律法の専門家やファリサイ派の人たちが、 
質問や批判をするためにやって来ることもありました。 
その時その時において、イエス様は驚くべき癒やしを行い、 
また誰もが感心する言葉を人々に語りました。 
きょうの物語で、イエス様のもとに近づいてきたのは、 
ユダヤの国の指導者である人でした。 
彼はイエス様の前に来て、ひれ伏して言いました。 

「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」(マタイ9:18) 

彼の願いは、死んでしまった娘を生き返らせてもらうことです。 
さすがに今回ばかりは、無理な話だと誰もが思ったことでしょう。 
人間の手では治療が不可能な病さえも癒やしてしまうこのイエス様にさえ、 
さすがに死んだ者を復活させることまでは不可能だろう、と。 
しかし、亡くなった少女の父親であるこの人は、 
愛する娘の死を前にして、諦めてはいませんでした。 
娘を失って悲しむ心を何とか奮い立たせて、
イエス様のもとに駆け寄ってきたのですから。 
通常、人がその息を引き取ると、葬りの準備が始まり、
その身体は綺麗に整えられます。 
この時代、死者の体は水で洗われた後、
油や香油が身体に塗られ、そして布で巻かれました。 
そして、死から24時間以内にお墓へと運ばれていたようです。 
そのため、残された家族にとって、この時間は、 
悲しみを覚えると同時に、とても忙しい時間です。 
愛する人を大切に葬るために、 
限られた時間の中で出来る限りのことを人はするものです。 
葬りの儀式を行うために、様々な手配を行う必要もあったでしょう。 
でも、彼はそのすべてを信頼できる人に任せて、 
娘を失って悲しむ心を何とか奮い立たせて、
イエス様のもとに駆け寄ってきたのです。 
彼のこの行動は、通常では考えられない行動だと思います。
しかし、通常では考えられないようなこの行動を、彼の心に芽生えさせ、
実際に行動に移すようにと彼を促したのは、イエス様に対する信頼でした。 
イエス様が神と共にいて、イエス様を通して、 
神が必ず自分の娘に働きかけ、生き返らせてくださると信じたから、 
彼は娘の葬りの準備から離れて、イエス様のもとに駆けつけて、願い出たのです。 
「おいでになって手を置いてやってください。 
そうすれば、私の娘は生き返るでしょう」と。 
彼のこの言葉を聞いて、イエス様はすぐさま彼について行き、 
彼の家を目指し始めました。 

2017年4月30日日曜日

説教#165:「今は喜びの時」

「今は喜びの時」
聖書 マタイによる福音書 9:14-17、コヘレトの言葉 3:1-11
2017年 4月 30日 礼拝、小岩教会 

【何事にも神の定めた時がある】 
「コヘレトの言葉」に、「何事にも時がある」と記されているように、
私たちの人生には、様々な「時」があります。 
私たちは自分たちが経験する、様々な時を、
自分や誰かの努力や怠けた結果と受け取り、
また時には、「偶然」と片付けてしまいます。
しかし、私たちの目にはそのようなものとしか思えない、
「時」というものは、「神によって定められた時」であるのだと、 
「コヘレトの言葉」の著者は理解していました。 
というのは、私たちの神は、歴史を支配しておられる方だからです。 
イエス様の時代のユダヤの人々も、
「コヘレトの言葉」の著者と同じように考えていました。
自分たちは、「神の時の中を生きている」と。
もちろん、私たちの人生は、喜びも苦しみも、また笑いも涙も、
すべてが入り混じっているため、
「昨日は喜びの時でしたが、今は悲しみの時です」
というように、一言で表現することは出来ません。
喜びを覚えながらも、どこかで悲しみ、
笑いながらも、心の何処かで苦しみを抱えていることがあるのです。
その意味で、神が私たちに定める時というものは、
常に喜びというわけではありません。
しかし、歴史を支配する神が、
私たちの時を定め、私たちの人生に計画を持っておられるのです。
ですから、私たちが喜びあふれる時だけでなく、
失望する時も、涙をながす時も、
争いに巻き込まれる時も、痛みを抱える時も、
いつも神の計画の中で、私たちは取り扱われ続けているのです。

2017年4月23日日曜日

説教#164:「行って、学びなさい」

「行って、学びなさい」
聖書 マタイによる福音書 9:9-13、ホセア書 5:15-6:6
2017年 4月 23日 礼拝、小岩教会

【「罪人」と見なされていた徴税人たち】
イエス様の時代、ユダヤの国は、ローマ帝国の属州となっていて、
ローマ帝国の支配下にありました。
そのため、ユダヤの国の人々には、ローマ帝国へ納税の義務がありました。
土地税や営業税、関税など、これらの税金を、
ユダヤの国を担当する総督から委託されて、
ユダヤの人々から税金を集めた人々が、
きょうの物語で登場する「徴税人」と呼ばれる人たちです。
ユダヤの人々は、「徴税人たちは罪人である」と考えていました。
なぜなのでしょう。
それは、多くの徴税人たちが、必要以上に多くのお金を集めて、
そのお金を自分の懐に入れていたからです。
しかし、それ以上に、彼ら徴税人たちが罪人と呼ばれたのは、
ローマ帝国におさめる税金を、
仲間のユダヤ人たちから集める手伝いをしていたためでした。
その上、徴税人たちは、その仕事をするためには、
必ずローマの人々と交わりを持たなければなりません。
異教徒と交わりをもつことは、汚れをもたらすと見られていたため、
徴税人たちは、異教徒の仲間と見なされ、
人々から嫌われ、偏見の目で見られていたのです。

2017年4月16日日曜日

説教#163:「閉じたものが開くとき」

「閉じたものが開くとき」
聖書 マルコによる福音書 16:1-8、イザヤ書 25:6-9
2017年 4月 16日 礼拝、小岩教会

【主イエスの葬られた墓に向かう女性たち】
それは、日曜日の早朝に起こった出来事でした。
マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、そしてサロメという名の
3人の女性たちが、陽が昇ってまだまもない時間に、
イエス様の身体が納められているお墓へと向かって歩いていました。
こんなにも朝早くに、彼女たちがお墓まで来たその目的は、
2日前に十字架にかけられ、息を引き取った
イエス様の身体に油を塗って、イエス様を葬るためでした。
でも、彼女たちはなぜイエス様の葬りを、
イエス様が亡くなってすぐに出来なかったのでしょうか。
それは、イエス様が息を引き取った日が関係していました。
イエス様が十字架の上で死を迎えたのは、
金曜日の午後3時頃のことでした(マルコ15:34)。
現代の私たちと違って、ユダヤの人々にとって、
日が沈んでから1日が始まりました。
つまり、イエス様が息を引き取ったのは、
ユダヤの人々にとって、一日の終わりの時間帯。
あと数時間後には、翌日、つまり「安息日」を迎えます。
安息日には、あらゆる行動が禁じられていたため、
葬りにも不都合が生じるという理由からか、
イエス様は急いでお墓へ納められ、葬られたのです。
ですから、安息日が明けた日に、
イエス様を慕っていたこの女性たちが、
早朝からお墓へ向かうことは、とても納得できる行動です。
愛するイエス様を葬ることが、ようやく出来る。
誠心誠意、愛をこめて、イエス様を葬りたいと願って、
彼女たちはお墓へ向かって歩んで来たのです。
ただ、彼女たちには、ひとつの心配事がありました。
イエス様が葬られたお墓の入り口は、大きな石で閉じられていたのです。
その石は、自分たちの力では、とても動かせそうにありません。
イエス様を葬るためにやって来たのは良いけれども、
「一体、誰が墓の入り口からあの石を転がしてくれるだろうか」。
そのような不安を口々に語りながら、
彼女たちはお墓の前までやって来ました。
すると、どうしたことでしょうか。
心配に思っていたあの大きな石が、既にわきへ転がしてあり、
お墓の入り口が開いているではありませんか。
心配事が思わぬ形で解決されていたことを不思議に思いながら、
この3人の女性たちは、お墓の中へと入って行きました。

2017年4月9日日曜日

説教#162:「子ロバでありたい」

「子ロバでありたい」
聖書 マルコによる福音書 11:1-11、ゼカリヤ書 9:9
2017年 4月 9日 礼拝、小岩教会 

【エルサレムに入場する人々】 
ホサナ。
主の名によって来られる方に、
祝福があるように。(マルコ11:9)

詩編118篇に記されている讃美を高らかに歌いながら、
あるひとつの、奇妙な集団がエルサレムにやって来ました。 
その中心にいたのは、子ろばに乗ったイエス様でした。
イエス様を取り囲んで歩む多くの人たちは、自分の服を道に敷き、 
他の人々は野原から葉のついた枝を切って道に敷いて、
イエス様が進んで行く道を整えました。
これはまるで、王さまがやって来たことを喜び祝うパレードでした。
「この方こそ、私たちが待ち望んでいた王、救い主メシアだ。
ホサナ!どうか私たちを救ってください!祝福あれ!」
このように人々は熱狂的になり、叫び、歌いながら、
イエス様と共にエルサレムの町へと入って行ったのです。 
ところで、イエス様の弟子たちをはじめ、当時のユダヤの人々が 
待ち望んでいた王さまとは、どのような王さまだったのでしょうか。
ユダヤの人々にとって、それは、この時からおよそ1,000年前に、
この地に王国を築いたダビデのような王さまでした。
彼らにとって、ダビデ王こそ、偉大な王さまであり、理想の王さまでした。
他の国に支配されず、自分たちのもとに平和をもたらす王さまを、
神が自分たちに与えてくださるその日が来ることを、
ユダヤの人々は祈り求め、待ち望んでいました。
このとき、イエス様を取り囲んでいた人々は、
「自分たちが待ち望んでいた王が来たのだ」と叫びながら、 
エルサレムに向かって歩んで来たのです。
「彼こそ、私たちの希望であり、神の約束が実現するために、
今こそ、ローマ帝国の支配から絶対的な力をもって、
この国を解放してくださるに違いない。
真の王さまである、メシアが私たちのもとに来たのだ」と、
喜びながら、人々はエルサレムの神殿へと向かって行ったのです。
「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。
いと高きところにホサナ」(マルコ11:10)と歌いながら。