しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 - ヘブル人への手紙 11章16節

2011年4月29日金曜日

最近思うこと#3:「カイロス――我慢と忍耐について」

以前、このブログでこれから考えたいこととして、「我慢と忍耐の違い」について書きましたが、先日、勉強していてなるほどと思うことがあったので、「最近思うこと」としてここに書き記すことにします。
*考察の過程として書くので、間違いもあると思います。
*佐藤敏夫「5章 摂理について」『キリスト教神学概論』を軸に記載します。

カイロス(καιρός)という「時」を意味するギリシア語があります。
類語として挙げられるクロノス(κρόνος)との違いは、クロノスが「線」であることに対して、カイロスは「点」であるということ。つまり、クロノスは「一定の期間」(period of time)を指すののに対し、カイロスは「ふさわしい時」(appointed time)を指します。

カイロスは二つの側面を持っています。
ひとつは「機会」という側面。これについて、佐藤敏夫は『キリスト教神学概論』(「神学概論」のテキスト)において以下のように語っています。
人が何かをするとき、神が定める「正しい時」があるというのが信仰の立場である。そこには、神がよしとするとき、すなわち、「正しい時」(right time)に着手しなければ、決して事はうまく行かないという考え方がある。昔の人は、そういう感覚を今の人よりずっと持っており、それゆえに着手すべき日を気にした。戦いを始める時、結婚をすると時、家を建てる時、大いにそういう感覚に支配された。 (佐藤敏夫『キリスト教神学概論』)
そして、もうひとつは「成就」という側面。
物事はカイロスがこなければ成就しないという感覚も、昔の人ほどもっていた。だから、子どもを教育して、一定の水準まで引き上げようとする際にも、一方では一生懸命そのために努力するが、他方、成就する時を待つという姿勢が生まれてくる。……これが忍耐ということである。(佐藤敏夫『キリスト教神学概論』)
コヘレト(伝道者の書)3章の記述を思い出しますね。
このようなカイロスの概念の喪失が現代の特徴であり、カイロスを「待つ」ことの喪失だと佐藤は書いています。

このカイロスを待つことの喪失を引き起こした原因は、
「時の支配者は誰なのか?」という問いがその答えを教えてくれる気がします。
時の支配者とは、創造主なる神である。
神は時間も創造されました。
人間が時の支配者であるということは決してありません。
しかし、現代人は時間の支配者となっています。
人々は、時間を対象化し、空間化し、計量化し、自由に合理的、計画的に使い、大きな成果を挙げてきたのは事実でしょう。しかし、それと共に、時間に追われ、時間の奴隷となっている状況にあります。現代人は時間の主人になったために、神こそが時間の支配者であることを忘れています。

自分の力で時を支配しようとし、何かを待つことが我慢なのかもしれません。
そして、神こそが時間の支配者であることを知り、耐えつつ待ち、待ちつつ耐えること、それが忍耐なのでしょう。

忍耐とは、神を覚え、「カイロスを待つ」ということ。
我慢と忍耐の違いは「時の理解」。

そんなことを考えさせられながら、日々学んでいます。
心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず 常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば 主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。(箴言3:5,6)