投稿

説教#66:「主イエスにある誇りをもって」

『 主イエスにある誇りをもって 』 聖書  コリントの信徒への手紙 第一 15:29-34、エレミヤ書9:22-23 日時 2015年4月26日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・小岩教会 【何を誇りとして生きているか?】 「あなたが誇りとするものとは何ですか?」と問い掛けられたら、 どのように答えるでしょうか。 ある人は、自分の能力を誇り、 またある人は、経済的な豊かさを誇るでしょう。 社会的な地位を誇る人もいれば、 自分の家族や、自分の生まれ故郷を誇る人もいます。 何を誇りとして生きているかは、人それぞれです。

説教#65:「神の国を待ち望む」

『 神の国を待ち望む 』 聖書  コリントの信徒への手紙 第一 15:20-28、イザヤ書65:17-25 日時 2015年4月19日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・小岩教会 【変化を切望するとき】 私たちは、生きていく中で、変化を求める時があります。 もちろん、悪い変化ではなく、良い変化です。 辛く、苦しい状況がずっと続いているときは、 そこから抜け出すという変化を求めます。 それは試験勉強であったり、友達付き合いであったり、 仕事や家庭で起こったトラブルであったりします。 困難に直面した時、試練にあう時、 そして、自分の力ではどうしようもできない状況に陥る時、 状況が少しでも良くなってほしいと願い、私たちは変化を求めます。 今が、とても苦しいからです。

説教#64:「復活の主イエスに希望を置く」

『 復活の主イエスに希望を置く 』 聖書  コリントの信徒への手紙 第一 15:12-20、エレミヤ書17:5-10 日時 2015年4月12日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・小岩教会 【コリント教会の問題:死者の復活の否定】 パウロはコリント教会の人々に、「最も大切なこと」として、福音を伝えました。 あなたがたが受け入れ、生活の拠りどころとしている福音とは、 「キリストが私たちの罪のために死んで、葬られたこと」、 「キリストが三日目に復活したこと」、 そして、「復活の主キリストが多くの人々の前に現れたこと」である、と。 パウロは、この最も大切なことについて述べる際、 3点目のことである「復活の主キリストが多くの人々の前に現れたこと」を特に強調しました。 しかし、彼はこの手紙の15章全体では、2点目を強調しています。 確かに、キリストは死者の中から復活したのだ、と。 パウロは言います。 キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。(Ⅰコリ15:12) どうやら、コリントの教会では、死者の復活を否定する人々がいたようです。 これこそ、パウロがコリント教会へ宛てた手紙の中で、 キリストの復活というテーマについて触れなければならなかった理由です。 コリント教会が抱えていた問題は、私たちにとっても重要な問題です。 それは、常識と経験に基づいて物事を考えるならば、 キリストの復活などあり得ないことなのですから。 しかし、そのようなあり得ないことこそ、 私たちが受け取り、信じている「最も大切なこと」なのです。

説教#63:「最も大切なことをあなたがたに」

『 最も大切なことをあなたがたに 』 聖書  コリントの信徒への手紙 第一 15:1-11、イザヤ書53:8-10 日時 2015年4月5日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・小岩教会 【何を大切なこととして生きているのか?】 私たちは、何を「大切なこと」として生きているでしょうか? 家族の絆。 愛情深くあること。 挨拶をすること。 人に誠実であること、など。 きっと、人それぞれ色々な答えが返ってくるでしょうが、 誰もが、何らかのものを「大切なこと」として生活していることでしょう。 私たちが考える大切なことが、他の人から大切にされないとき、 私たちは失望や危機感、不快感といった感情を覚えることがあります。 しかし、私たちは常に正しいとは限りません。 常に「大切にすべきこと」を大切に出来ているとも限りません。 たとえば、愛情深くあることは、すべての人にとって共通の大切なことでしょう。 しかし、私たちは、打算的に、自己中心的に生きることが多くあります。 思い違いによって、間違えることもあれば、 自ら進んで、大切なことを大切にしないこともあります。 「大切なこと」。 それは、教会やクリスチャンにとってもあります。 では、教会にとって「最も大切なことは何か?」と問われたら、 一体何と答えるべきなのでしょうか? パウロは、コリントの教会に送った手紙の15章で、この問いに答えているのです。 教会にとって、そして、クリスチャンにとって、最も大切なことについて、 彼は力強く語っているのです。

説教#62:「神が語り、神が行う」

『 神が語り、神が行う 』 聖書  マルコによる福音書4:26-34、エゼキエル書17:22-24 日時 2014年11月23日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・浦和教会 【どうしてそうなるのか、その人は知らない】 イエス様の語ったこの種蒔きの譬えは、 私たちにとって、とても挑戦的なものです。 イエス様は、このように語りました。 人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。(マルコ4:26-28) 蒔かれた種に対して、種を蒔いた人は一体何が出来るのでしょうか。 この譬えの中で、人がすることといえば、 種を蒔くことと、種の成長を見届けること、そしてその実を収穫することです。 種が成長するために、実を結ぶために決定的なことを、 人は全くしていないのです。 「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する」。 そして、「ひとりでに実を結ばせる」のです。 もちろん、必要であれば、水をやったり、雑草を取り除いたりしたでしょう。 しかし、種が成長するのに決定的なことを、人は出来ないのです。 そして、その成長過程の中で、何が起こっているのかを知らないのです。 【人の努力によらず、神のわざによって成長する】 なぜこの譬えが私たちにとって、とても挑戦的なものだといえるのでしょうか。 それは、私たちは、自分の力で物事を進めたいという思いが強くあるからです。 私たちは、出来る限り知りたいと願います。 自分の把握できる範囲で、物事が進行していたら、とても安心します。 すべての事柄が、自分にとって都合の良いように進むことを願うならば、 出来る限り、その物事に関与して、意見することでしょう。 そうやって、私たちは、自分が関わる物事、計画や予定を進めていくのです。 しかし、イエス様はこの譬えを通して、宣言しているのです。 「神の国は、そのようなものではない。 私たちが努力したから、この地上に築かれるものでは決してない」と。 それは、「夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長する」ので...

説教#61:「異質な香りを放つ共同体」

『 異質な香りを放つ共同体 』 聖書  エフェソの信徒への手紙5:1-5 日時 2014年11月20日(木) 場所 KGK、御茶ノ水ブロック 【キリスト者の倫理の原則】 あなたたちは「神に倣う者となりなさい」(1節)。 あなたたちは「愛のうちに歩みなさい」(2節、新改訳)。 あなたたちは「みだらなことや色々の汚れたこと、 あるいは貪欲なことを口にしてはなりません」(3節)。 エフェソ5章のはじめの5節は、3つの命令文が中心となって構成されています。 ここで語られている命令には、ひとつの前提があります。 それは、エフェソ書の中でこれまで語られてきたことです。 エフェソ書は、前半、最初の3章を通して、「クリスチャンとはどのような存在なのか」と問題を、教会論を中心に取り扱っています。 自分の過ちと罪のゆえに死んでいた私たちが、 神の豊かな恵みゆえに、キリストによって、神の子どもとされている。 そして、神はキリストにおいて私たちをひとつに結び合わせ、 私たちを教会というひとつの共同体の一員にしてくださった。 キリストの十字架によって地上に建てられた、この教会という群に、私たちは呼び集められた。 キリストによって、憎しみと争いの中に生きていた私たちの内に、 和解と平和がもたらされ、この教会という共同体の内にそれは実現している、と。 このような神の偉大な恵みのわざを語った後に、 著者は、倫理問題へと踏み込んでいくのです。 これは、キリスト者の倫理を考える上で、とても重要な原則です。 キリストを信じる者とは、神の前にどのような存在なのか。 そこから始めることにによってのみ、 「私たちは、クリスチャンとしてどう生きるべきか」と問うことが出来るのです。 【神の子どもであるキリスト者は、神に倣う者となれ】 では、私たちは一体、どのような存在なのでしょうか。 著者は、5章1節でこのように述べています。 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。(エフェソ5:1) あなたがたは、神に愛されている子ども。 そう、キリスト者とは、神の子どもなのです。 私たちが、才能があったからでも、 多くの財産をもっていたからでも、...

説教#60:「神の国の福音に生きる」

『 神の国の福音に生きる 』 聖書  マルコによる福音書4:21-25、レビ記19:15-18 日時 2014年11月9日(日) 礼拝 場所 日本ナザレン教団・浦和教会 【神の国が明らかにされる】 イエス様は、「種蒔きのたとえ」を話した後、続けて人々に語りました。 「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。聞く耳のある者は聞きなさい。」(マルコ4:21-23) イエス様はこの言葉を、一体どのような意味で語ったのでしょうか。 不正や悪事は、いつか明らかにされるということでしょうか。 すべてのことは、神の前に明らかであるということでしょうか。 そのどちらでもありません。 それは、このテキストの前後関係から明らかです。 イエス様は、4章1節から20節までは、神の国のたとえを語っています。 そして、26節から34節も、神の国についてのたとえです。 この流れを無視して、神の国のたとえ以外のことが語られたとは考えにくいことです。 ですから、ここで露わになり、公にされるものとは、神の国のことです。 たとえ今は、すべての人が神の国がどのようなものなのかがわからなくても、 それは明らかになる。 今、私たちの目の前に広がっている光景は、 神の国が約束するものとは程遠い現実だったとしても、神の国はやがて明らかになる。 イエス様は、ともし火が来るというたとえを通して、その事実を語ったのです。 【主イエスは「来た」】 では、神の国は一体どのような方法で明らかにされていくのでしょうか。 ここで注目すべき重要な言葉があります。 それは、「来る」という言葉です。 この言葉は、マルコによる福音書にとって、とても重要な言葉です。 それは、「神の子であるイエスが来る」という事実を告げ知らせる言葉です。 私たちに救いを与える方が「来る」という希望の言葉です。 そのような「来る」という言葉が、ここではわざと付けられています。 実際、「ともし火は、升の下や寝台の下に置くためにあるだろうか」と言っても、意味は通るでしょう。 しかし、イ...